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第四話:赤き風の名は

第四話:赤き風の名は

燃えるような深紅の毛を持つ汗血馬かんけつばを得てから、呂布奉先の日常は、新たな輝きを帯びていた。彼は、その世話を誰にも任せず、自らの手で甲斐甲斐しく行った。ブラッシングをし、極上の飼葉を与え、時にはそのたくましい首筋に顔をうずめて、言葉にならない思いを交わす。


そして、軍務の合間を見つけては、呂布はその赤い名馬に跨り、砦の周りの広大な曠野こうやを疾駆した。初めて跨った時の衝撃は、鮮烈に彼の記憶に刻まれている。まるで己の四肢が伸びたかのように、意思が瞬時に伝わる一体感。しかし、その神速に、最初は呂布自身が振り落とされそうになるほどだった。「こいつはただ乗りこなすだけでは駄目だ。魂で語りかけねば…」彼は試行錯誤の末、ついにこの猛々しい魂と呼吸を合わせることに成功した。大地を蹴るたびに生まれる、尋常ならざる推進力。疾風迅雷とは、まさにこのことか。


「奉先様、またその赤い馬と戯れておいでか。兵たちの訓練もご覧になっていただかねば…」


背後から、やや呆れたような、しかし温かみのある声がした。老将・張譲である。彼は、呂布の武才を誰よりも認めつつも、その若さ故の危うさや、一つのことに熱中しすぎる癖を常に案じていた。


「戯れではない。こいつとの呼吸を合わせているのだ、張譲」呂布は馬上から振り返り、少しむっとした表情で応えた。「こいつは、ただの馬ではない。俺の魂の半身となる存在だ。こいつと呼吸を合わせることが、結果的に兵たちの命を守ることに繋がる」

「魂の半身…でございますか」張譲は苦笑いを浮かべた。だがその心の奥では、(奉先様は、我ら兵よりも、一頭の馬の方を信じておられるのか…?)という一抹の寂しさと不安が、小さな棘のように引っかかっていた。「それは結構なことでございますが、将たる者、兵あっての将。兵たちの鍛錬もまた、魂を合わせるべき大切な務めでございますぞ」

「分かっている!」呂布は少し声を荒らげた。図星を突かれた思いがあった。「訓練は貴殿に任せてあるはずだ」

「はっ、それがしにできることは致しますが…」張譲はなおも食い下がろうとしたが、そこへ伝令の兵が駆け込んできた。


「申し上げます! 丁原様より、奉先様へ急ぎお戻りいただきたいとのご伝令!」


呂布は眉をひそめ、張譲と顔を見合わせた。何か、よからぬ事が起こったのかもしれない。彼は赤い馬の背を軽く叩くと、砦へと馬首を返した。


砦に戻ると、丁原は既に軍議の席に着いていた。その表情は厳しく、并州の主要な将校たちが緊張した面持ちで揃っている。その中には、若いが既に頭角を現しつつある武将、張遼の姿もあった。


「奉先、よく戻った」丁原は呂布の姿を認めると、静かに口を開いた。「都の状況が、いよいよ悪化した。董卓め、少帝を廃し奉り、新たに献帝を擁立。自らは相国しょうこくとなり、実権を完全に握った。その暴虐、目に余るものがある」


呂布の表情が険しくなる。

「親父殿…!」

「うむ。もはや座してはおれん。幸い、各地の諸侯に、曹操孟徳が発した檄文げきぶんが回り、反董卓の連合軍結成の気運が高まっている。我らもこれに加わる」

「はっ!」呂布は力強く応えた。彼の胸には、丁原への忠義と共に、董卓への怒り、そして新たな相棒と共に戦場を駆け巡りたいという、武人としての渇望が渦巻いていた。

「奉先」丁原は、その呂布の昂ぶりを諌めるように言った。「その赤い馬を得て、お前の武はさらに磨かれたであろう。だが、油断は禁物だ。董卓の兵力は侮れん。それに…戦は武勇だけでは決まらんことを、忘れるな」


丁原の言葉に、呂布は先の匈奴との戦いを思い出し、わずかに表情を引き締めた。


数日後、并州の精鋭一万は、出陣の準備を整えた。その前夜、呂布は一人、新たな相棒の元を訪れていた。燃えるような深紅の毛並みは、松明の光を受けて妖しいまでに艶めいている。


「…明日から、お前が俺の翼となる」


呂布は、その逞しい首筋を撫でながら、静かに語りかけた。


「お前の名は、今日から『赤兎』だ」


彼は、決然と言い放った。天翔けるうさぎのように速く、そして燃えるような赤。これ以上、この神馬にふさわしい名はない。


「天翔ける兎のように、俺をどこまでも高く、遠くへ連れて行ってくれ、赤兎」


「――ブルルルッ!」


赤兎は、まるでその名を理解し、誇るかのように、高く、力強く嘶いた。その瞳には、呂布への絶対的な信頼と、共に戦場を駆けることへの喜びが宿っているように見えた。二つの魂が、完全に一つになった瞬間であった。


翌朝、丁原と呂布は、選び抜かれた并州の精鋭一万を率いて、洛陽へと進発した。出発の際、呂布は自室に立ち寄り、鎧櫃の奥から、娘たちが描いた一枚の絵をそっと取り出した。先日の匈奴戦で、頬に浅い傷を負って帰った夜のことだ。三人の娘たちは、泣きじゃくりながら彼の傷の手当てをし、そして「もう父上が怪我をしませんように」という祈りを込めて、この絵を描いてくれたのだ。(しばしの別れだ…この絵が、俺の御守りよ)守るべきものの重さを胸に、彼は決意を新たに、出陣の途についたのであった。


しかし、洛陽への道は、彼らが予想した以上に険しいものとなった。并州を出て、冀州きしゅうとの境に近い山岳地帯に差し掛かった時、突如として彼らの前に数万の大軍勢が立ちはだかったのである。掲げられた旗印には、「黒山こくざん」の二文字。黒山賊であった。彼らの装備は粗末だが、その目には飢えた獣のような光が宿っている。


「はっはっは! 待ち構えていたぞ、丁原! 呂布! まさか俺様が、お前たちの進軍を阻みに来るとは思うまい!」


軍勢の中から、一際体格の良い、精悍な顔つきの男が大音声で名乗りを上げた。彼こそ、黒山賊の首領、張燕ちょうえんであった。その背後には、董卓軍の旗指物の一部が風にはためいているのが見えた。やはり、裏で繋がっている。


「お前たちの首を挙げれば、董卓様もさぞお喜びになるだろう! 我ら黒山賊の名を、天下に轟かせる絶好の機会よ!」


「賊徒どもが…!」丁原は苦々しげに吐き捨てた。

「親父殿、ご心配には及びません!」呂布は赤兎の首筋を叩き、自信に満ちた声で言った。「数は多くとも、所詮は寄せ集めの賊。この呂布と赤兎の敵ではありません! 一気に蹴散らしてご覧に入れます!」


(赤兎の力を試す、良い機会だ!)内心の昂りを抑えきれず、呂布は丁原の制止を待たず、赤兎を疾駆させた。その速さは、もはや以前の匈奴戦の比ではない。まるで赤い稲妻がほとばしるかのようであった。敵が弓を構えるよりも早く、呂布は賊の群れへと突入していく。


「な、なんだ、あの速さは!?」

「赤い…赤い悪魔だ!」


黒山賊たちは、呂布の神速と、一撃で数人を薙ぎ倒す方天画戟の破壊力の前に、為す術もなく混乱に陥る。張燕自身も、慌てて迎え撃とうとするが、呂布の姿は既に彼の眼前に迫っていた。数合打ち合った後、呂布は戟の石突で張燕の体勢を崩すと、返す刃でその肩を深く切り裂いた。


「ぐあああっ!」


悲鳴を上げ、張燕は馬上から転げ落ちる。大将が打ち破られたのを見て、黒山賊たちは戦意を喪失し、逃げ惑う。


「見たか、親父殿! これが赤兎の力です!」呂布は勝ち鬨を上げ、振り返った。彼の顔には、圧倒的な勝利への満足感が浮かんでいた。


しかし、丁原の表情は厳しさを増していた。

「奉先、深追いするな! 退け!」丁原は鋭く命じた。「敵の退き方が早すぎる。それに、あの張燕という男、噂に聞くよりもろかったな…。これは…罠かもしれんぞ。斥候によれば、奴らには于毒うどくという知恵者がいると聞く。油断すれば足元をすくわれるぞ」


丁原の言葉に、呂布は一瞬、反論しかけた。しかし、先の丁原の教え(油断するな)を思い出し、渋々ながらも兵を引いた。


丁原の懸念は、的中した。その夜から、黒山賊による執拗なゲリラ戦術が開始されたのだ。道には落とし穴や石つぶてが仕掛けられ、崖の上からは矢や岩が降り注ぐ。呂布は何度も敵部隊を粉砕するが、敵本体を捉えることができず、進軍は大幅に遅滞した。兵士たちの間には疲労と苛立ちが募り始める。


「くそっ! どこに隠れているのだ、卑怯者めが!」


赤兎を得て、向かうところ敵なしと信じていた呂布の自信は、見えない敵の執拗な攻撃によって、早くも揺らぎ始めていた。(これほどの馬と戟があっても、この有様か…!)武勇だけでは切り抜けられない、新たな戦いの局面。彼は初めて、己の力の限界と、これから始まるであろう長い試練の本当の厳しさを、肌で感じ始めていたのである。

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