第十八ノ三話:戦支度
第十八ノ三話:戦支度
袁紹の使者が去った後の晋陽は、にわかに戦の匂いに包まれていた。城下の鍛冶場からは、昼夜を問わず、鉄を打つ甲高い音が響き渡り、兵士たちは来るべき決戦に備え、厳しい訓練に励んでいる。
その様子を、呂布は城壁の上から、静かに見下ろしていた。
彼の決断は、并州の民に動揺ではなく、むしろ奇妙な熱狂をもたらしていた。「殿は、あの名門の袁紹に、一歩も引かれなかったそうだ!」そんな噂が誇らしげに語られているのを、呂布は耳にしていた。丁原を失った不安は、呂布という新たな守護神への期待へと変わりつつあった。
その熱気が、呂布の心を少しずつ変えていた。
父を失った悲しみ、領主としての重圧、そして政務への不慣れさからくる無力感。それらが、民の期待によって、ゆっくりと癒されていく。だが、同時にそれは、彼に新たな強迫観念を植え付けた。
(そうだ…これで良いのだ)
彼は、訓練に励む兵士たちの、自分に向ける尊敬の眼差しを感じながら、自らに言い聞かせた。
(親父殿は、守りに徹しすぎた。だが、民が求めるのは、敵を恐れぬ強い指導者だ。俺のこの武こそが、民の心を一つにし、并州を守る最大の力なのだ)
だが、その自信は、夜、一人で机に向かうと、途端に揺らいだ。
目の前には、陳宮が置いていった兵糧の出納帳。意味の分からぬ数字の羅列が、彼の頭を締め付ける。
「陳宮…」
報告に来た軍師を、彼は呼び止めた。
「俺は帳面を読んでも、細かい数字はさっぱり分からん。だがな」呂布は、自嘲気味に笑った。「親父殿が、常にこれを気に病んでいたことだけは、骨身に染みて分かった。戦は、腹が減ってはできん。我らの兵糧は、あとどれくらいもつ? 正直に言え」
その、これまでになく真摯な問いに、陳宮は驚いて呂布の顔を見た。
「…お答えします。冬を越す分はございますが、もし春から戦となれば、長くは支えきれませぬ。せいぜい、三月といったところでしょう」
「三月か…」
呂布は、その数字の重みを、噛みしめるように呟いた。
(持久戦は、できん…!)
その冷徹な事実が、彼の選択肢を、ただ一つに絞り込んだ。
(ならば、俺が春までに決着をつけるしかない。俺の武で、袁紹の軍の頭を叩き、一刻も早く戦を終わらせる。それこそが、兵糧に限りがある我らにとって、唯一の道だ。民にこれ以上の負担をかけ、兵を無駄に死なせるわけにはいかん…!)
それは、もはや単なる驕りではなかった。領主として、自らの領地の限界を知り、民を思うが故の、悲壮なまでの決断。だが、その決断が、自らの武への過信に根差していることに、彼はまだ気づいていなかった。
「戦の準備を急がせろ。民にこれ以上の負担をかけるな。この戦は、俺が終わらせる」
呂布の言葉に、陳宮は何も言えず、ただ深く頭を下げた。
出陣の日が近づくにつれ、呂布の心は、領主としての苦悩と、武人としての高揚感が入り混じり、一つの巨大な覚悟へと収束していった。
彼は、自らが信じる「最も犠牲の少ない道」を突き進むことを、固く誓っていた。




