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幕間:軍師の賭け

幕間:軍師の賭け

逢紀が逃げ帰った後の軍議の場。勝利を確信し、高らかに笑う呂布と、それに唱和する張遼たちの勇ましい声を聞きながら、陳宮は一人、冷たい茶を啜っていた。その胸の内は、冬の并州の空のように、重く、冷たく曇っていた。


(…早すぎる)

主君の決断は、確かに并州の誇りを示した。だが、あまりにも早計に過ぎる。丁原殿が亡くなられてから、まだ半年も経っていない。并州の足元は、まだ固まっていないのだ。


黒狼族との一戦。あの勝利が、将軍の中に眠っていた獅子を完全に目覚めさせたと同時に、危険な「毒」をも与えてしまった。

「己の武だけで、全てを解決できる」という、甘美な毒を。


(将軍は、まだお気づきでない…)

あの戦いで、将軍が単騎で敵陣を蹂躙できたのは、相手が所詮、統率の取れていない烏合の衆であったからだ。そして何より、将軍の背後には、張遼殿や高順殿、そして張譲殿といった、将軍を信じ、その無茶を支える覚悟を持った者たちがいたからだ。

将軍の武は、決して「独り」で輝いているわけではない。その武を輝かせるための「舞台」を、我らが必死に整えていることを、あのお方はまだ理解されていない。


(袁紹は、黒狼族とは違う…)

その軍は精強で、顔良、文醜といった猛将もいる。そして何より、沮授、田豊といった、この陳宮にも劣らぬ知恵者がいると聞く。彼らが、将軍の単純な力押しを、ただ黙って見ているはずがない。必ずや、その力の裏をかき、最も痛いところを突いてくるだろう。


脳裏に、かつて中原で見てきた、数多の知将たちの顔が浮かぶ。

(…もし、相手が真に怜悧な軍師を擁する君主であったなら…)

彼らならば、将軍のこの一直線なまでの純粋さを、恰好の餌食とするだろう。偽りの賞賛で天まで持ち上げ、その武を利用し尽くし、用済みとなれば、一片の情けもなく切り捨てる。


(止めねばならなかった。何としてでも…)

だが、止められなかった。あの、袁紹の使者を射殺さんばかりの覇気を前に、この陳宮の言葉も、張譲殿の涙の諫言すら、届かなかった。

丁原殿という、唯一絶対の重しを失った今、この荒ぶる神を御せる者は、もはや誰もいないのかもしれない。


「陳宮殿、見事であったな、我が采配は」

上機嫌な呂布の声が、思考の海から陳宮を引き戻す。


「は…はい。まことに、天晴れにございました」

陳宮は、顔に完璧な笑みを貼り付けながら、深く頭を下げた。だが、その瞳の奥の憂いは、誰にも見せることはなかった。


(これは、賭けだ…)

陳宮は、そっと目を閉じた。

この戦で、将軍が自らの驕りによって手痛い失敗を経験し、真の「将」として覚醒するのか。

それとも、その驕りが、我ら并州そのものを、破滅の淵へと追いやるのか。

どちらに転んでも、この乱世の盤面は大きく動く。ならば、この陳宮、勝算の低い賭けにこそ、我が知略の全てを注ぎ込もう。


この磨かれていない至宝を、天下に冠たる真の英雄へと導くか、あるいは共に砕け散るか。

どちらに転ぶか、この陳宮の目をもってしても、今はまだ見えぬ。

ただ、胸騒ぎだけが、冷たい茶の味を、さらに苦くしていた。

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