第十八ノ二話:決別の狼煙
第十八ノ二話:決別の狼煙
逢紀の言葉に、軍議の場は凍りついた。張遼や高順の顔は、屈辱と怒りに赤く染まっている。
最初に沈黙を破ったのは、老将・張譲だった。
「お待ちくだされ、逢紀殿。それは、あまりに一方的なお話。今の并州に、それほどのものを差し出す余裕は…」
「黙れ、老いぼれ!」逢紀は、張譲の言葉を鼻で笑った。「これは、袁紹様からの温情だ。董卓亡き後の混乱に乗じ、貴殿らの領地を奪い取ることとて、我らには容易い。それをせぬ代わりに、友好の形を示せ、と仰せなのだ。この意味が、分からぬか?」
そのあまりにも無礼な物言いに、張遼が腰の剣に手をかけ、立ち上がろうとする。それを、陳宮が目線で制した。
陳宮は、あくまで冷静な声で逢紀に問いかけた。
「逢紀殿。その要求は、事実上の、并州を冀州の属国と見なす、ということに相違ないかな?」
「ふん、話の分かる者もいるではないか。どう捉えるかは、貴殿ら次第よ」
逢紀は、ふんぞり返ったまま、答えた。
軍議の席が、再び重い沈黙に包まれる。張譲は、顔面蒼白になりながら、呂布の横顔を窺った。(奉先様、どうかご辛抱を…! 今、袁紹を敵に回せば、并州は滅びますぞ…!)
陳宮は、冷静に損得を計算していた。(この要求を飲めば、いずれ并州は完全に飲み込まれる。だが、拒絶すれば、即座に戦となる。どちらにせよ、茨の道か…)
皆が固唾を飲んで、新たな主の判断を待っていた。
呂布は、それまで腕を組み、黙ってそのやり取りを聞いていたが、やがて、ゆっくりと立ち上がった。その巨躯が立ち上がっただけで、逢紀の顔に、一瞬だけ怯えの色が浮かんだ。
「…親父殿なら、あるいは耐えたやもしれん」
呂布は、静かに、しかし、腹の底から響くような声で言った。
「親父殿なら、并州の民のため、この屈辱を飲み込んだやもしれん。だがな…」
彼は、逢紀を、その鷹のような鋭い双眸で射抜いた。
「俺は違う。俺が主である限り、この并州の民が、誰かに頭を下げ、富を奪われることなど、断じて許さん! それが、俺の『義』だ!」
「なっ…!貴様、袁紹様に楯突く気か!」
逢紀が、狼狽したように叫ぶ。
「楯突くのではない。教えるのだ」
呂布は、不敵な笑みを浮かべた。
「并州の狼に、無闇に手を突っ込もうとすれば、どうなるかをな」
彼は、傍らの戟を掴むと、その石突で床を強く一突きした。ゴッという重い音と共に、床板が砕け散る。
「要求は、拒絶する! 命が惜しくば、失せろ! そして、袁紹に伝えよ。并州が欲しくば、力で奪いに来い、とな!」
その圧倒的な覇気を前に、逢紀は声も出せず、腰を抜かさんばかりにして部屋を飛び出していった。
後に残されたのは、張り詰めた、しかしどこか晴れやかな空気だった。
張譲は、その場で崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえていた。(ああ、丁原様…やはり、このお方は…)
陳宮は、深いため息をついた。(ああ、やはりこうなるか。だが、これがこのお方なのだ。この燃え盛る炎にこそ、私は賭けたのだからな)
そして、張遼や高順の目には、主君への絶対的な信頼と、来るべき戦への闘志が、炎のように燃え上がっていた。
北方の地に、新たな戦いの狼煙が、確かに上がった瞬間であった。
軍議が終わり、将たちがそれぞれの持ち場に戻っていく中、陳宮だけが呂布のそばに残った。
「将軍」
「何だ、陳宮」
「袁紹との戦、もはや避けられませぬ。ですが、我らの現状は、東に袁紹、西には長安の李傕・郭汜という、二つの大きな脅威に挟まれた形となっております」
陳宮は地図を広げ、并州の東と西を指し示した。
「このまま袁紹との戦に全力を注げば、万が一、背後の長安から李傕・郭汜が攻め込んできた場合、我らは挟み撃ちに遭い、ひとたまりもございません。東の敵と戦うには、まず西側の背を固めることが肝要です」
彼の指は、さらに西、涼州へと動いた。
「そこで、西涼の太守・馬騰です。彼は李傕・郭汜とは同郷ながら、その覇道を快くは思っておらぬはず。我らが馬騰と手を結び、確固たる同盟を築けば、李傕・郭汜は我らの背後を突きにくくなります。いわば、馬騰殿に、我らの背中を守る盾となっていただくのです」
「西涼の馬騰か…」呂布は、その名を反芻した。「なるほど。背後の安全を確保し、袁紹との戦に集中するというわけか」
「はい。そして、それは将来、袁紹に対抗するための大きな布石ともなり得ます。共通の敵を持つ者同士、話に応じる可能性は十分にあります」
呂布は、陳宮の深慮に感心し、力強く頷いた。「よかろう、陳宮。その件、貴様に一任する。使者を送れ」
「はっ。必ずや、朗報を持ち帰ってご覧にいれます」
この一手は、やがて并州に、新たな風を呼び込むことになる。




