第十八話:覚醒と驕り
第十八話:覚醒と驕り
黒狼族との戦勝から、数ヶ月が過ぎた。
并州の都、晋陽には、かつての主君・丁原を失った悲しみの影がいまだ残りつつも、新たな主・呂布の下で、確かな活気が戻り始めていた。北の脅威を圧倒的な武で退けた呂布の威光は、并州の民に「新たな守護神」の誕生を確信させ、兵たちの士気も日に日に高まっていた。
呂布自身もまた、大きな自信に満ちていた。
父・丁原の死後、自らの無力さに打ちひしがれた日々。あの暗闇から自分を救い出してくれたのは、陳宮の知恵でも、張譲の励ましでもない。他ならぬ、己自身の「武」であった。そして、その武を振るうことで多くの兵の命を救い、戦を早期に終結させることができた。その成功体験は、呂布の中に一つの確固たる信念を植え付けた。
(そうだ。親父殿や陳宮は慎重すぎるのだ。戦を長引かせることこそ、兵と民を苦しめる最大の悪。ならば、俺が矢面に立ち、敵の頭を叩き潰す。それが、最も犠牲の少ない、最も慈悲深い戦い方なのだ)
彼の思考は、もはや単なる「驕り」ではない。それは、彼なりの「正義」であり、「領主としての責任の果たし方」であった。だからこそ、その後の陳宮や張譲の諫言が、彼の耳には「(短期決戦でのわずかな)兵の犠牲を厭う、臆病者の戯言」にしか聞こえなくなっていく。父を失った悲しみと領主としての重圧、それらから目を背けるように、彼は自らの「武」という最も分かりやすい力に、意識的に縋り始めていたのかもしれない。彼は、自らの戦い方が正しかったのだという確信を、日に日に強くしていた。
その傍らで、陳宮は静かに茶を啜っていた。主君の覇気は頼もしい。だが、その瞳の奥に、かつて虎牢関で見たような、己の力を過信する危うい光が再び宿り始めていることに、彼は気づいていた。
(将軍、勝利は良薬にもなれば、猛毒にもなる。どうか、その毒に侵されぬことを…)
その懸念が現実のものとなるのに、さほど時間はかからなかった。
ある日の午後、晋陽の城門に、一団の使者が物々しい雰囲気で到着した。掲げられた旗印には、冀州の覇者、「袁」の文字。河北の支配者、袁紹からの使者であった。
使者の長として呂布の前に現れた男は、逢紀と名乗った。その顔には名門・袁家に仕える者特有の傲慢さが貼りつき、その目は呂布を「丁原亡き後の若輩者」と、あからさまに見下していた。
彼は、表向きは友好を謳いながら、并州が誇る駿馬を年に数百頭、そして雁門で産出される鉄鉱石の大部分を「友好の証」として冀州へ無償で提供せよ、と一方的に要求してきたのだ。
それは、もはや外交ではない。紛れもない、恫喝であった。
「我らが主、袁紹様は、貴殿が父君を失い、北方の守りもままならぬであろうことを深く憂慮されておられる。故に、我らがその守りの一助となってやる、という有り難きお申し出なのだ。その対価として、これくらいのものを差し出すは、当然の礼儀であろう?」
逢紀は、せせら笑うかのように言った。その言葉の端々から、呂布と并州への侮りが滲み出ている。
軍議の場は、水を打ったように静まり返った。ただ、呂布の握りしめた拳がギリリと音を立てるのだけが、やけに大きく響いていた。その指の関節は、怒りのあまり白く変色している。
その頃、冀州の鄴。
袁紹は、軍師・沮授の「今は呂布を刺激すべきではない」という諫言を退け、逢紀を使者として并州へ送っていた。
「万が一、呂布が要求を撥ね退けた場合に備え、二手も打っておかねばな」
袁紹は、北方に勢力を持つ匈奴の一派、黒狼族に使者を送っていた。多大な金品と引き換えに、并州への侵攻を唆すためだ。標的は、かつて呂布に討たれた「黒狼」の息子。父の仇を討つという大義名分を与えれば、あの血気盛んな若者は、喜んで并州に牙を剥くだろう。
「呂布が北の蛮族と争い、疲弊したところを、我らが悠々と并州を頂く。ふふ、我ながら見事な策よ」
袁紹のその浅はかな策謀が、やがて自らに跳ね返ってくることを、彼はまだ知る由もなかった。
一触即発。晋陽の軍議の場で、誰もが次の瞬間に起こるであろう破局を、息を殺して見守っていた。




