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第十七ノ二話:鬼神の蹂躙

第十七ノ二話:鬼神の蹂躙

狼哭谷ろうこくこくの戦場は、一人の男によって、そのことわりを歪められようとしていた。一万の軍勢が放った矢の雨は、しかし、その標的を捉えることなく、虚しく大地に突き刺さる。赤い残像が、敵陣の先鋒に、音もなく突き刺さっていた。


それは、もはや戦ではなかった。

嵐が、森を薙ぎ払うかのようだった。

津波が、砂の城を飲み込むかのようだった。

呂布の方天画戟は、もはや武器ではない。彼の意思そのものが、物理的な形をとった破壊の概念。


一閃すれば、槍衾やりぶすまが穂先ごと数人の兵士を巻き込んで、血肉の赤い花びらのように宙を舞う。彼らの絶叫すら、風を切る戟の音に掻き消された。

一突きすれば、分厚い盾がまるで紙のように貫かれ、その背後にいた兵士の驚愕の表情ごと、心臓を抉り取る。赤兎は、その亡骸を意に介することなく踏み越えていく。

戟の石突いしづきで大地を叩けば、馬の脚が砕け、騎兵が玩具のように転がり落ち、後続の兵に踏み潰されていく。


彼の狙いは、ただ一つ。敵の将、黒狼の息子の首。

その首級を挙げるため、彼の進路上に存在する全てのものは、ただの「障害物」だった。

彼は、敵の密集隊形の中を、一直線に突き進む。その戦いぶりは、あまりに効率的で、あまりに無慈悲だった。

敵本陣からは、金切り声のような命令が聞こえてくるが、その声も赤い疾風の前進を止めることはできず、むしろ恐怖に歪んだ悲鳴のように響くだけだった。


(まずい…!)

その時、呂布は、敵の本陣を固める精鋭たちの槍の穂先が、自分の喉元を掠めるのを感じた。紙一重。赤兎の神速がなければ、今ので確実に貫かれていた。敵の本陣は、彼が想像した以上に堅固だったのだ。恐怖を乗り越えた決死の兵たちが、死を覚悟して槍の壁を作っている。

(ちぃっ…! 獣のくせに、守りだけは固めたか!)


彼は、一瞬の焦りを振り払うように、一旦矛先を変えた。

敵将の首ではなく、その指揮系統を、その心を、完全に破壊することに。

彼は、本陣の周囲を、まるで旋回する猛禽のように駆け巡り始めた。その動きは、先程までの直線的な破壊とは質の違う、より狡猾で、残忍なものだった。

部隊を鼓舞していた指揮官が旗を振れば、その腕を戟で貫き、宙吊りにする。男が絶叫しながら落馬し、狼の旗が泥にまみれると、その部隊の動きが明らかに鈍った。

伝令が馬を走らせれば、その馬の脚を薙ぎ、落馬したところを容赦なく踏み潰す。重要な情報が、そこで永遠に失われた。

必死に指示を出そうとした小隊長の喉を、呂布が投げ放った短戟が正確に貫いた。声にならない喘ぎを漏らし、男は崩れ落ちる。


頭脳を、神経を、一つ、また一つと、的確に、そして見せつけるように破壊していく。

その結果、敵陣は、頭を失った大蛇のように、ただただ混乱し、のたうち回るだけの肉塊と化した。兵士たちは、もはやどこへ向かえばいいのかも分からず、同士討ちを始める者すら現れた。


(今だ…!)

この瞬間こそ、好機なのだと、呂布は本能で理解した。

彼は、空に向かって方天画戟を高く掲げ、太陽の光を反射させた。

それは、絶望する敵には死の宣告であり、そして、息を殺して待つ仲間への、勝利の号令であった。


その閃光を待っていたかのように、谷の両側から、地鳴りのような鬨の声が轟いた。

右翼からは、張遼率いる騎馬隊が、狼の群れが羊の群れに襲いかかるように、混乱する敵陣の背後へと雪崩れ込む。その疾風のような突撃は、敵の脆い背中を容赦なく食い破り、陣形をさらに引き裂いていく。

そして正面からは、高順率いる并州本隊が、一糸乱れぬ歩兵方陣を組んで、怒涛の勢いで突き進んでくる。その表情に派手な昂奮はない。ただ、主君がこじ開けた道を、一歩たりとも無駄にせぬという、鋼のような規律と忠誠心だけが宿っていた。彼らの進撃は、無秩序な混乱を、ただ静かに、そして確実に塗りつ潰していく。


呂布は、それを見届けると、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

(見たか、陳宮、張譲。俺のやり方は間違っていなかった)

呂布の心は、高揚感で満たされていた。それは、単なる武人としての驕りではない。

(持久戦になれば、兵糧は尽き、兵は疲弊し、民はさらに苦しむ。だが、俺が敵の頭を叩けば、戦は一瞬で終わる。俺一人の危険で、万の兵と民を救えるのだ。これこそが、最も犠牲の少ない、最も正しい戦い方ではないのか? これこそが、この武を与えられた「并州の父」たる俺の役目だ!)

仲間を信じていないのではない。仲間を、民を、守りたいからこそ、独りで戦う。その歪んだ、しかし彼にとっては純粋な「義」が、確固たる信念へと変わろうとしていた。彼は、追撃には一切加わらなかった。傷ついた兵を労わることよりも、戦場の血の匂いと敵の悲鳴の中で、自らの圧倒的な勝利の余韻に浸ることの方が、彼にとっては重要だったのだ。


この戦いは、呂布の、常軌を逸した武勇と、それを信じて好機を逃さなかった仲間たちの連携によって、見事な大勝利となった。


後方の丘で戦況を見守っていた陳宮は、安堵の息をつきながらも、その眉間には深い憂慮の皺が刻まれていた。勝利に沸く兵たちの歓声を聞きながら、彼は一人、冷めた目で呟く。

「…危うい。あまりにも危うすぎる。今回は、敵が烏合の衆であったから、将軍の神威が通じたに過ぎぬ。もし相手が、袁紹や曹操のような練達の将であったなら…。今日の勝利は、将軍にとって、良薬ではなく、いずれ命を蝕む甘い毒となるやもしれん…」


呂布自身は、まだ気づいていない。

自らの、ただひたすらに純粋な「武」が、仲間と連携することで、戦術を超えた、新たな「力」へと昇華し始めているということを。そして、その勝利が、彼の中に新たな慢心という名の、恐ろしい獣を育て始めていることにも。

継承者の覚醒は、まだ、始まったばかりであった。

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