第十六ノ三話:覚醒の咆哮
第十六話ノ三:覚醒の咆哮
不器用な対話から数日が過ぎた。
呂布は相変わらず自室に籠もっていたが、その様子は以前とは明らかに違っていた。彼は、陳宮や張譲、そして時には長女の暁の助けを借りながら、一つ一つ、政務を学ぼうと格闘していた。
父の遺した温もり、仲間からの信頼、そして娘たちの思いやり。それらが、彼の心を癒すと同時に、新たな迷いも生んでいた。この安らぎを知ってしまった自分が、かつてのように非情な戦場に身を投じ、ただ敵を屠るだけの鬼神に戻れるのか、と。
その時だった。
「申し上げます! 緊急報告!」
伝令の兵士が、文字通り血相を変えて部屋に飛び込んできた。「北の国境にて、異民族の大軍が出現! その数、およそ一万! 旗印は…『黒狼』! 斥候の報告によれば、先の黒狼の将の息子かと!」
「黒狼…だと…!」
その名を聞いた瞬間、呂布の全身に、まるで冷水を浴びせられたかのような衝撃が走り、次いで、心の奥底から灼熱のマグマが噴き出すような、激しい感覚が蘇った。
脳裏に、鮮明な記憶が蘇る。あれは、まだ丁原が生きていた頃。北の国境で対峙した、匈奴の精強な一部族。そして、自分が一騎打ちの末に討ち取った、あの将の顔。
机上の複雑な数字や文字ではない。目の前に現れた、明確な敵。
自らの武が生んだ、新たな因縁。そして、故郷を、民を、そして何より――あの三人の娘たちの未来を脅かす、分かりやすい脅威。
(そうだ…これだ…!)
呂布の心の中で、絡み合っていた霧が、一陣の風で吹き払われたかのように晴れていく。
政も知らぬ、ただの武人である自分が、あの偉大な男の跡を継げるのか。その重圧に、押し潰されかけていた。
だが、今、彼は思い出した。自分が、何者であるかを。
(俺は、呂布奉先だ)
脳裏に、丁原の最後の言葉が、今度は雷鳴のように、しかし温かく響き渡る。『ワシの跡は…お前が継げ…この并州を…民を…お前が、守るのだ…』
(親父殿…あんたのようには、まだできんかもしれん。だが、俺には、俺にしかできんことがある!)
民の腹を満たすことはできなくとも、民を脅かす狼の牙をへし折ることはできる。
複雑な政は分からなくとも、敵を討ち、この地を守るという、単純明快な「義」ならば、この身を賭して貫ける。
そして、脳裏に、三人の娘たちの顔が浮かんだ。
(あの子たちは、あの子たちなりに、この并州を、そしてこの俺を支えようと戦っている。ならば、父親である俺が、いつまでも下を向いていてどうする!)
(俺は、もう独りの武人ではない。あの子たちの父だ。この并州の父としての責任を、果たさねばならんのだ!)
それこそが、丁原が自分に託した、最初の、そして最大の役目のはずだ!
彼は、ゆっくりと、しかし大地に根を張る巨木のように、揺るぎない決意をみなぎらせて立ち上がった。その双眸には、もはや苦悩の色はない。あるのは、守るべきもののために戦場へと向かう、天下無双の武人の、燃え盛る炎だけだった。
「陳宮、張譲を呼べ。軍議を開く」
彼の声には、もう微塵の迷いもなかった。それは、并州の新たな主が発する、最初の号令であった。
「そして、俺の戟を持ってこい」
呂布は、壁に立てかけてあった方天画戟に手を伸ばした。十数日ぶりに触れるその感触は、まるで己の失われた半身を取り戻したかのようだった。冷たい鉄の重みが、彼の魂に、確かな熱を呼び戻す。
彼は、窓の外、北の空を睨みつけ、獰猛な笑みを浮かべた。
「長らく眠らせていたからな。埃を払い、刃を確かめておけ。すぐに、血を吸わせることになる」
継承者の苦悩の時間は、終わった。
北方の地に、新たな危機と共に、新たな指導者が、**自らの「武」でその責任を果たすべく、**立ち上がった瞬間であった。
それは、悲しみと無力感に沈んでいた獅子が、守るべきものをその背に負い、己の最も得意なやり方で戦おうとする、最初の咆哮でもあった。




