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幕間:三つの眼差し

幕間:三つの眼差し

父が、部屋に籠もってから、十日が経つ。

晋陽の城には、敬愛する主君・丁原を失った悲しみと、新たな主・呂布の沈黙がもたらす、重く、冷たい空気が澱んでいた。誰もが不安を口にできず、ただ天を仰ぐばかり。しかし、その父の背中を、三つの異なる光を宿した瞳が、じっと見つめていた。


【長女・ぎょう:理知と献身の眼差し】

(父上…)

暁は、父の私室の扉の前で、静かに佇んでいた。中からは、時折、竹簡が床に落ちる乾いた音と、父の押し殺したような深いため息だけが聞こえてくる。その音を聞くたびに、彼女の胸はきつく締め付けられた。

(父上は、戦うことしか知らぬお方。まつりごとの複雑さは、きっと父上の心を蝕んでいる…)

彼女は、陳宮に頼み込んで借り受けた書物を、そっと胸に抱いた。そこには、国を治めるための法や、経済の仕組み、そして何より、父が最も苦手とする兵站の計算方法が記されている。まだ十二歳の彼女には、そのほとんどが難解な記号の羅列にしか見えない。文字を追うたびに、頭が痛くなる。

だが、彼女は決して諦めなかった。夜、妹たちが寝静まった後も、小さな灯火を頼りに、食い入るように文字を追う。分からない言葉があれば、印をつけておき、翌日、陳宮に教えを乞う。「陳宮様、この『屯田』という策は、今の并州でも実行可能でしょうか? 荒れ地を兵に耕作させれば、兵糧問題の抜本的な解決に繋がるやもしれません」などと、その怜悧な問いは、百戦錬磨の軍師ですら時に思わず唸り、舌を巻くほど的確であった。

(私が、もっと賢くならなければ。父上の、天を衝くほどの『武』は、この并州の、そして天下の至宝。だが、その強すぎる力は、それを正しく導く『知』がなければ、ただの破壊の力にもなりかねない)

彼女の脳裏には、父を支える丁原の、厳しくも温かい姿が浮かんでいた。

(お爺様の代わりは、誰にもできない。でも、その重荷を少しでも軽くすることはできるはず。父上の戟が父上の翼ならば、私はその翼を導く風になる。それが、この并州の、そして父上のために、私にできる、たった一つの戦い方なのだから)

彼女の澄んだ瞳には、少女の健気さを超えた、未来の宰相を思わせる、静かで、しかし揺るぎない強い意志の光が宿っていた。


【次女・飛燕ひえん:武勇と情熱の眼差し】

(ちっ…父上の奴、いつまで塞ぎ込んでるんだ!)

飛燕は、訓練場の隅で、汗だくになりながら木製の槍を振るっていた。その一突き一突きには、やり場のない苛立ちと、父へのもどかしさが込められている。

(丁原のお爺様が死んだのは、悲しい。私だって、大好きだったんだ! でも、だからって、何もしないでどうするんだ!)

父は、并州で一番強い。いや、天下で一番強いはずだ。

虎牢関では、あの劉備とかいう兄弟たちが余計な手出しをしてきたが、父上はあの得体の知れない蛮族(黒沙)を圧倒していた。滎陽では、たった一手で董卓軍を蹂躙した、生ける武神。その父が、竹簡の山なんかに負けている。それが、彼女には我慢ならなかった。彼女は、父の武を誰よりも信じ、誇りに思っている。だからこそ、その父が悩む姿を見たくはなかった。

「そりゃっ!」

気合と共に放たれた突きが、藁人形の心臓部を寸分違わず貫く。その槍捌きは、もはや子供の遊びではない。父の動きを見て盗み、張遼に教えを乞い、独りで磨き上げた、恐るべき才能の片鱗であった。見守っていた兵士の一人が、隣の男に囁く。「おい、見たか今の突きを。もはや張遼様にも劣らんのではないか…」。その動きの速さ、力強さは、並の兵士ではもはや目で追うことすらできない領域に達しつつあった。

(見てろよ、父上。あんたが悩んでる間に、私はもっと強くなる。あんたが、俺がいなくても并州は大丈夫だと、安心して背中を預けられるくらいに!)

(いつか、あんたの隣で、いや、あんたの前で戦えるくらいに! あの関羽とかいう髭の男より、ずっと強く! 父上が政で并州を守るなら、私はこの槍で、父上と、姉様と、華を守る! それが、私の道だ!)

彼女の槍が、空気を切り裂く鋭い音を立てた。その音は、まるで彼女の魂の叫びのようだった。その燃えるような瞳には、父の血を色濃く受け継いだ、若き女武神の覇気が宿っていた。


【三女・:慈愛と共感の眼差し】

(お父様…お顔が、やつれてしまっている…)

華は、庭の片隅で、傷ついた小鳥の羽を優しく撫でていた。

(お爺様がいなくなって、お父様は、きっと独りぼっちなんだ…)

難しいことは分からない。姉様のように本を読んでも頭に入らないし、飛燕姉様のように槍を振るうこともできない。でも、父がとても苦しんでいることだけは、誰よりも痛いほど伝わってくる。父のあの大きな背中が、今はとても小さく見える。

彼女は、厨房へ行くと、侍女に教わりながら、父のために滋養のある粥をこしらえた。火傷をしながらも、何度も味を確かめる。そして、庭で摘んだ小さな野の花を、盆の隅にそっと添えた。

父の私室の前に、お盆を静かに置く。扉を叩く勇気はない。でも、これなら、きっと父は気づいてくれる。中から、荒々しく竹簡を払いのける音が聞こえ、華の肩がびくりと震えた。父の苦しみが、音となって伝わってくる。

(私にできることは、なんだろう…? 強くもないし、賢くもないけれど…)

華は、小鳥をそっと手のひらに乗せた。小鳥は、安心したように、彼女の指先で小さくさえずった。その温かさが、心にじんわりと広がる。

(そうだ。お父様が疲れた時に、少しだけ休める場所になってあげよう。お父様が笑ってくれるように、温かいお粥を作ってあげよう。それくらいしか、できないけれど…でも、きっと…)

戦うことしか知らない父にとって、一番必要なのは、ただ「帰ってこられる場所」なのかもしれない。彼女のその天性の共感力は、人の心の最も柔らかい部分を癒す、不思議な力を持っていた。この力は、武力や知力では決して救えぬ、多くの民の心を救うことになるであろう、尊い才能の萌芽であった。

彼女の優しい瞳は、ただひたすらに、父の心の平穏を祈っていた。


知の光、武の炎、そして仁の温もり。

三つの眼差しが、それぞれの場所から、沈黙する巨星を、静かに、しかし力強く支えていた。

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