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第十六話:継承者の沈黙

第十六話:継承者の沈黙

丁原の葬儀は、并州全土の民に見守られ、厳かに執り行われた。

父の亡骸の前で「并州を守る」と力強く誓った呂布の姿は、人々に、悲しみの中にも確かな希望を与えた。丁原という偉大な太陽は沈んだが、呂布という、より激しく、より強大な光を放つ新たな太陽が昇ったのだ、と誰もが信じていた。


だが、その新たな太陽は、昇るべき天の高さを知らず、分厚い雲に覆われ、もがき苦しんでいた。


主を失った丁原の私室。今や、そこが呂布の仕事場となっていた。

彼は、誓いを立てたあの日から、部屋に籠もり続けていた。それは、悲しみからの逃避ではない。彼は、父と慕った人が遺した膨大な竹簡や木簡の山と、独りで格闘していたのだ。


并州全土の地図、各砦の兵力配置、匈奴や鮮卑との過去の書簡、民からの陳情書、そして、何よりも彼を苦しめている、複雑怪奇な兵糧の備蓄と消費を記した出納帳…。

これまで、彼が一度も目を向けたことのなかった世界。彼が戦場で敵の首級を挙げ、その武勇を轟かせている間、丁原がこの薄暗い部屋で、一人向き合い続けてきた、もう一つの戦場であった。


(…分からん)


竹簡を広げては、投げ出すように置く。そこに書かれた文字や数字は、彼の頭の中をただ滑っていくだけで、何一つ意味をなさなかった。

「兵糧の備蓄、あと半年分」と書かれていても、それが十分なのか、足りないのか、彼には見当もつかない。冬を越せるのか、次の収穫まで持つのか、その感覚すらなかった。

「雁門郡の民、用水路の修復を請う」とあっても、どこから職人を集め、どれほどの費用がかかるのか、想像もできなかった。民の顔も、その苦しみも、数字の羅列からは何も伝わってこない。


(親父殿は、どうやってこれを…?)

(どうやって、この并州を守ってきたのだ…?)

戦場で敵と対峙するのとは、全く質の違う戦い。そこには、戟を振るうことで得られる、単純明快な答えなどどこにもなかった。見えない敵、終わりのない問題。その一つ一つが、彼の肩に、ずしりとのしかかってくる。


「奉先様、少しは休息を…」

心配する張譲の声にも、「…放っておいてくれ」と短く返す。その声には、自暴自棄の響きではなく、答えを見つけようともがく者の、苦悩の色が滲んでいた。

(俺には、無理だ…)

その言葉が、何度も喉まで出かかった。

(親父殿のようには、到底なれぬ。俺にあるのは、この腕一本だけだ。こんなもので、どうやって民の腹を満たし、この国を治めろというのだ…!)


だが、彼は決して竹簡から目を離さなかった。

分からないなら、分かるまで読む。理解できないなら、覚えるまで睨みつける。まるで初めて方天画戟を握った日のように、彼は、この未知の武器との戦いを始めていた。汗が額を伝い、竹簡の上に落ちる。不慣れな思考で酷使した頭は、鉛のように重い。それでも、彼は諦めなかった。

(親父殿は言った…『ワシの跡は、お前が継げ』と。ならば、逃げるわけにはいかん…!)


時には、そのやり場のない重圧に駆られ、赤兎に跨って嵐のように城を飛び出した。そして、日がな一日、曠野を当てもなく駆け巡る。風だけが、彼の乱れる心をわずかに鎮めてくれる友だった。

だが、夕暮れと共に城に戻れば、彼は再びあの竹簡の山へと向かう。逃げるためではない。戦うために。


夜更け、心配した陳宮が静かに茶を差し入れた。目の前の主君は、疲れ果てた獣のように荒い息をつきながらも、その瞳だけは、必死に答えを探そうと燃えていた。

「…陳宮か。悪いが、今は邪魔をしないでくれ。この出納帳の数字が、どうしても合わんのだ」

呂布は、顔も上げずにそう言った。その指先は、慣れぬ仕事で墨に汚れていた。


その姿に、陳宮は静かな感動を覚えていた。

(将軍は、変わろうとしておられる…)

かつての彼ならば、このような面倒な仕事は、全て部下に丸投げしていただろう。だが、彼は今、自らの手で、父の遺した重荷を背負おうとしている。たとえ不器用でも、たとえ今はまだ答えが見つからなくとも。


「将軍」陳宮は、そっと新しい灯火を呂布の側に置いた。「その帳は、去年の洪水被害による、臨時の穀物貸与の記録と照らし合わせねば、数字は合いませぬぞ。そちらの棚にございます」


「…そうか」呂布は、一瞬だけ動きを止め、そして、ぼそりと呟いた。「…助かる」

その短い言葉に、陳宮は静かに微笑み、一礼して部屋を出た。


并州最強の男は、今、自らの無力さに打ちひしがれていた。

しかし、同時に、彼は新たな「強さ」を手に入れるための、最も険しく、そして最も尊い戦いに、その身を投じ始めていたのであった。

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