第十五ノ二話:最後の遺言
第十五ノ二話:最後の遺言
(…奉先…)
(…強く、生き抜け…)
(…お前の信じる、道を…)
沈みゆく意識の底で、丁原は、最後の力を振り絞り、現実の世界にいるであろう息子の姿を探して、そっと、手を伸ばした。
「…奉…先…」
まるで風が囁くような、か細い声。呂律が回らず、ほとんど音になっていない。
しかし、その声は確かに、絶望に沈む呂布の耳に届いた。
彼はハッと顔を上げた。固く閉じられていた丁原の瞼が、僅かに開き、その掠れた瞳が、必死に呂布を捉えようとしていた。奇跡。消えゆく命の炎が、最後の輝きを放っていた。
「親父殿! 気が付かれたのですね! 親父殿!」
呂布は、子供のようにその手にすがりつき、必死に呼びかけた。
「…あ…ぁ…」
丁原は、何かを伝えようと喘ぐように口を動かすが、麻痺した舌は、もはや意味のある言葉を紡ぐことはできない。その瞳から、一筋の、悔し涙がこぼれ落ちた。
「親父殿…! 分かります、言いたいことは分かります!」
呂布は、父の意を汲み取ろうと、その瞳を必死に見つめた。
丁原は、呂布の言葉に応えるかのように、動く方の左手で、呂布の手を弱々しく、しかし力強く握りしめた。
そして、その視線を、ゆっくりと、しかし確かな意志をもって動かし始めた。
まず、彼は陳宮を見た。その目には、「この男の知恵を借りよ」という、明確な信頼が宿っていた。
次に、張遼を見た。「この男の武と共に戦え」と、その眼光が鋭く光る。
そして、部屋にいる他の全ての家臣たちを見渡した。「独りではない、仲間を信じよ」と、その視線が訴えている。
最後に、彼は再び呂布の顔を、慈しむように見つめた。
そして、自らの胸を、とん、と一度だけ指さした。
その瞳が、呂布に語りかけていた。
(お前には…ワシが教えた…『義』の心があるはずだ…)
(この并州を…民を…お前が、守るのだ…)
呂布は、その言葉なき遺言の全てを、魂で理解した。
「はい…! 分かりました、親父殿…! 必ずや…!」
呂布は、溢れる涙で視界を滲ませながら、子供のように何度も、何度も頷いた。
丁原は、その返事を聞いて、満足げに、そしてこの上なく安らかな微笑みを浮かべた。最後に、彼の視線は、部屋の隅で心配そうに見つめているであろう、三人の呂布の娘たちの幻影を探すかのように宙を彷徨った。
そして、その唇が、声にならない形で、最後に動いた。
「…わ…し…の…ほこり…」
それが、并州の巨星、丁原の、最後の言葉となった。
彼の瞳から光が永遠に失われ、握っていた呂布の手が、力なく、だらりと落ちた。
部屋に、時が止まったかのような、深い静寂が訪れる。
「……おやじ、どの…?」
呂布の唇から、信じられないといった、か細い声が漏れた。
そして、次の瞬間。
「おやじどのーーーーーーーーっ!!」
呂布の慟哭が、城を、そして并州の空を震わせた。
それは、天下無双と謳われた男が、生まれて初めて見せた、子供のような、魂からの叫びであった。
彼を支えてきた巨大な柱が、音を立てて崩れ落ちた瞬間。彼の人生における、最も深く、最も大きな喪失。
部屋の隅で、張遼は唇を噛み締め、とめどなく流れる涙を腕で拭った。陳宮は、静かに目を伏せ、この偉大な指導者の死を悼んだ。張譲は、その場に崩れるように膝をつき、嗚咽を漏らした。
誰もが、一つの時代の終わりを、肌で感じていた。
やがて、慟哭が途切れ、呂布はゆっくりと立ち上がった。その顔からは涙が消え、代わりに、底なしの悲しみと、そしてそれを上回るほどの、重い決意の色が浮かんでいた。彼は、父の亡骸に深々と頭を下げると、静かに、しかし、その場にいる全ての者の魂を震わせる声で言った。
「…親父殿。見ていてくだされ。この呂布、不肖の息子だが…あんたが遺したこの并州を、必ずや守り抜いてみせる」
その言葉は、彼が真の指導者として、独りで立たねばならない、過酷な試練の始まりを告げる、運命の鐘の音でもあった。
北方の空に輝き続けた巨星は、地に落ちた。
だが、その光は消えたわけではない。
残された者たちの心に、そして何より、呂布という、あまりにも強大な器の中に受け継がれ、新たな時代の夜明けを、静かに待っていた。




