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幕間:我が誇り、我が憂い

幕間:我が誇り、我が憂い

憂い

(…奉先…)


暗く、冷たい水底に、ゆっくりと意識が沈んでいく。

体が動かぬ。声も出せぬ。だが、不思議と痛みも苦しみもなかった。ただ、遠い日の記憶だけが、消えゆく命の灯火に照らされて、走馬灯のように鮮やかに蘇っては、消えていく。


并州の乾いた風の匂い。

鉄と血の匂いが染みついた、武骨な自らの手。

ワシの人生は、戦と政に明け暮れた、ただそれだけのものだった。

色気もなければ、華やかさもない。この北方の荒野のように、ただ厳しく、乾いていた。

…そう、あの日までは。

あの子に、出会う、あの日までは。


(…ああ、思い出すな…)

初めてあの子を曠野で拾った日のことを。

狼の群れに囲まれながら、たった一人、小さな石ころを握りしめて立ち向かっていた、あの幼い瞳。飢えと恐怖で震えながらも、その奥には、決して何者にも屈せぬ、孤高の炎が宿っていた。

あの炎に、ワシは魅せられたのだ。

この乾ききったワシの人生に、天が与えてくれた、あまりにも眩しすぎる光。

この手で育て、天下に轟く将にしてみせると誓ったのは、この并州のためか、漢室のためか。いや、違う。ただ、このワシが、あの子の輝きを、誰よりも近くで見ていたかった。それだけの、我儘だったのかもしれん。


その武は、まさしく天賦のもの。

神が気まぐれに、人の形を与えた力そのものだ。

ワシが教えたのは、ほんの初歩。あとは、あの子が自らの魂で、天賦の才を磨き上げていった。

方天画戟を振るう姿は、荒ぶる神の舞。

赤兎を駆る姿は、天を翔ける赤い流星。

この丁原、数多の勇者を見てきたが、あの子ほどの武を持つ者は、過去にも、そしておそらく未来にも、現れはしまい。

我が并州の、いや、天下の至宝よ。

ワシの、たった一人の、誇るべき息子よ。


(…だが、それ故に…)

沈みゆく意識の底で、誇りと共に、深い憂いが影を落とす。

ワシは、あの子に「力」を与えすぎたのかもしれん。

その魂は、あまりにも純粋すぎるのだ。

磨き上げられた刃のように、一点の曇りもなく、真っ直ぐすぎる。

ワシを「親父殿」と慕う、その忠義に、一片の嘘もない。

仲間を思い、民を思う、その心に、偽りはない。

しかし、その純粋さ故に、この乱世を渡っていくには、あまりにも危うい。

裏切りを知らぬが故に、人の悪意にあまりにも無防備だ。

義を重んじるが故に、中原の汚濁に容易く傷つく。

そして、何より…強すぎるが故に、己の孤独に気づいていない。


(ワシがいなくなったら、誰が、あの子を導いてやれるのだ…?)

(誰が、あの不器用な背中を、支えてやれるのだ…?)

(誰が、戦の後に、一人で酒を飲むあの子の隣に、座ってやれるのだ…?)

酸棗での、劉備とかいう若者との出会いが脳裏をよぎる。

あの男は、奉先とは対極の、しかし同じく「本物」の輝きを持つ。あの男となら、あるいは…。

陳宮もおる。あの怜悧な軍師ならば、奉先の激しい炎を、正しく導く風となれるやもしれん。

そうだ、あの子は、もはや独りではない。


(案ずることは、ないのかもしれん…)

(あの子は、きっと大丈夫だ…)

そう思おうとしても、親としての最後の我儘か、後悔の念が、鉛のように心を重くする。

ワシは、あの子に「義」を教えた。民を守れ、と。

だが、もっと普通の父親のように、頭を撫でてやりたかった。

他愛もない話をして、共に笑い合いたかった。

お前が守ると誓った、あの三人の可愛い孫たちの成長を、共に見守りたかった。

ぎょうの利発さ、飛燕ひえんの勝気さ、の優しさ。あの子らは、お前の魂の三つの形なのだろう。その成長を、もう少し、もう少しだけ、この目で見ていたかった。


(ああ…だが、もう時間がないようだ…)

意識が、いよいよ遠のいていく。

最後に、最後に一つだけ。

ワシのこの思いを、あの子に伝えねば。

この頑固で、不器用で、どうしようもなく愛おしい、我が息子に。

(奉先…聞こえるか…)

(お前は、この丁原の、生涯ただ一つの誇りだ…)

(この乾いた荒野のようなワシの人生に、お前という光が現れ、全てが色づいた。お前に出会えたことこそが、ワシの人生、最高の誉れであった…)

(だから、どうか…強く、生き抜け…)

(お前の信じる、道を…)

沈みゆく意識の底で、丁原は、最後の力を振り絞り、現実の世界にいるであろう息子の姿を探して、そっと、手を伸ばした。

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