幕間:軍師と将の祈り
幕間:軍師と将の祈り
丁原が倒れたという凶報は、嵐のように晋陽城を駆け巡った。
城内が、指導者を失うかもしれないという恐怖と混乱に包まれる中、二人の男は、それぞれの場所で、静かに、しかし深く、思考を巡らせていた。
陳宮は、自らの私室で、一枚の白紙の竹簡を前に、ただ目を閉じていた。
部屋の外から聞こえてくる、人々の動揺の声、慌ただしい足音。それら全てが、彼の耳には、まるで遠い世界の響きのように感じられた。
彼の頭の中では、ただ一つの、冷徹な問いが渦巻いていた。
(もし、丁原様が、このまま帰らぬ人となったら…)
それは、想像するだけでも、胸が張り裂けそうな問いであった。だが、軍師とは、最も考えたくない盤面を、最も冷静に読まねばならぬ生き物だ。
(この并州は、どうなる…?)
丁原という、絶対的な求心力を失った并州は、内からは豪族たちの権力争いが、外からは袁紹や曹操といった、飢えた狼たちが、ここぞとばかりに牙を剥いてくるだろう。
そして何より、あの人だ。
呂布奉先。
丁原という唯一の重しを失った、あの強大すぎる力は、悲しみと怒りに任せて暴走するやもしれない。そうなれば、并州は自壊する。
(…止めねばならぬ)
陳宮は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、悲しみの色ではなく、既に次の一手を見据える、凍てつくような光が宿っていた。
(某が、新たな重しとならねば。呂布将軍を、新たな主君として、この并州を一つに束ねるのだ。たとえ、どんな手を使ってでも…)
彼の祈りは、天には届かぬ。彼の祈りは、ただ、この并州という国が存続するという、大局的な、そして非情なまでの現実を見据えていた。
一方、その頃。
張遼は、丁原の寝室の扉の前で、ただ一人、じっと立ち尽くしていた。
中からは、呂布の、時折漏れ聞こえる、獣が傷を堪えるような、押し殺した呻き声が聞こえてくる。その声を聞くたびに、張遼の心もまた、鋭い刃で切り裂かれるようだった。
彼は、医者の詰める部屋に入ることすらできなかった。
今、自分に何ができる?
主君の回復を祈ることしかできない。
そして、もう一人の主君である、あの大きな背中が、悲しみで完全に折れてしまわぬよう、ただ、この場で見守ることしかできない。
彼は、強く、強く拳を握りしめた。爪が、掌に食い込む。
(奉先様…)
脳裏に、これまでの戦いが蘇る。黒狼族との戦い、虎牢関での死闘、滎陽での救援劇。常に、先頭に立ち、全ての敵をその身に引き受けてきた、あの圧倒的な後ろ姿。
あの人は、いつも独りだった。
強すぎるが故に、誰にも頼らず、全てを独りで背負い込もうとしてきた。
そして今、最大の支えであった丁原様までもが…。
(俺が、ならねばならない)
張遼は、覚悟を決めた。
(これからは、俺が、あの人の剣となり、盾となる。あの人の背中を、命懸けで守る。あの人が、安心してその武を振るえるよう、全ての障害を、この槍で薙ぎ払う)
(だから、どうか、奉先様。今は、存分に悲しんでくだされ。そして、必ず、立ち上がってくだされ…)
彼の祈りは、丁原の、そして呂布個人の、魂に向けられた、どこまでも熱く、どこまでも真っ直ぐなものであった。
并州の「知」と「武」。
二人の男は、それぞれのやり方で、傾きかけた巨星を見つめ、そして、来るべき新たな時代に、その身を捧げる覚悟を、静かに固めていた。




