第十五話:巨星、傾く
第十五話:巨星、傾く
并州への帰路は、穏やかであったが、兵たちの心は重かった。董卓は死んだ。だが、何も解決はしていない。乱世は、より深く、より暗い混沌へと向かっている。それを誰もが肌で感じていた。
故郷の土を踏み、并州の州都・晋陽の城壁が遠くに見えてきた時、兵士たちからは安堵の声が漏れた。呂布の胸にも、懐かしい北方の乾いた風が心地よかった。しかし、彼らを、そして呂布を待っていたのは、その晋陽城で起こった、予想だにしなかった、そして彼の人生を根底から揺るがすことになる、あまりにも過酷な現実であった。
その夜、帰還を祝うささやかな宴が開かれた。長旅の疲れを癒し、明日からの并州再建を誓い合う、穏やかな宴であった。丁原も、呂布や陳宮、張遼らと酒を酌み交わし、今後の并州の行く末を熱く語っていた。その顔には疲労の色は濃かったが、その瞳には、故郷に戻り、未来を語る喜びに満ちた光が宿っていた。
だが、悲劇は、あまりにも突然に訪れた。
丁原が、杯を片手に立ち上がろうとした、その瞬間。
彼の巨体が、ぐらりと大きく揺れた。持っていた杯が手から滑り落ち、ガチャンと音を立てて砕け散る。
「…おやじ、どの…?」
呂布が訝しげに声をかけるのと、丁原が言葉を発しようとして、その口から意味のなさない、不明瞭な音だけが漏れ出たのは、ほぼ同時であった。彼の顔は蒼白になり、その右半身が、まるで糸の切れた人形のように、だらりと垂れ下がる。そして、ゆっくりと、しかし抗うこともできずに、その場に崩れ落ちた。
「親父殿!」
呂布の絶叫が、宴の喧騒を切り裂いた。
牀榻に横たえられた丁原は、もはや別人であった。数刻前まで、あれほど力強く未来を語っていた威厳に満ちた姿はどこにもない。顔色は土気色で、呼吸は浅く、荒い。右の手足は完全に麻痺し、固く閉じられた瞼は、ぴくりとも動かない。
傍らでは、晋陽で名医と評判の者たちが懸命に鍼を打ち、薬湯を匙で口元へ運んでいる。だが、薬湯は力なく口の端からこぼれ落ちるばかり。医者たちは、ただ無言で首を横に振り、その表情は絶望的に暗かった。
「中風かと…おそらくは、長年の心労と、先の遠征での無理が重なり、脳の内で血が…もはや、我らには手の施しようが…」
呂布は、その言葉を前に、牀榻の傍らに膝をつき、ただ唇を強く噛みしめることしかできなかった。天が落ちてくるとは、このことか。育ての親であり、武の師であり、そして唯一、この天涯孤独の自分を理解し、導いてくれた存在。その人が、今、目の前で、人の尊厳すら失い、静かに消え去ろうとしている。込み上げてくるのは、底なしの悲しみと、どうしようもない無力感。
(逝かないでくれ、親父殿…俺を、一人にしないでくれ…)
彼の心の叫びも虚しく、丁原の容態は、刻一刻と悪化していくばかりであった。北の地を照らし続けた巨大な星が、今、その光を失い、静かに傾きかけていた。




