第三話:赤き風、来る
第三話:赤き風、来る
先の匈奴との激戦から数日が過ぎた。呂布が守る北門砦には、戦いの熱気が冷めやらぬ一方で、失われた命への静かな哀悼の空気が漂っていた。討ち取られた敵兵の亡骸は片付けられ、負傷した兵士たちは手当てを受け、そして、先の戦いで散った三十余名の并州武士たちのための、ささやかな弔いの儀も執り行われた。
呂布は、砦の物見櫓の上に一人、腕を組んで立っていた。眼下に広がるのは、見慣れたはずの曠野。しかし、今の彼の目には、その風景がいつもとは違って見えていた。風は相変わらず冷たく、鉛色の空がどこまでも続いている。先の戦いでは、確かに勝利を収めた。だが、その勝利は、三十余名の部下の命と引き換えに得たものだ。
(三百で五千に挑むなど、やはり無謀だったのではないか…? 俺は、ただ己の武を示したかっただけではないのか? 親父殿の期待に応えたいという焦りが、冷静な判断を曇らせたのではないか…?)
自問自答が、彼の胸を締め付ける。あの時、張譲の言う通り退却していれば、彼らは死なずに済んだかもしれない。だが、それでは丁原殿の命令に背くことになる。民を守るという大義も果たせなかっただろう。どちらが正しかったのか? 正しい戦い方とは何なのか? 若き呂布には、まだその答えを見つけ出すことができなかった。
(親父殿なら、どうされただろうか…)
自然と、脳裏に浮かぶのは、育ての親であり、主君である丁原の、厳しくも温かい眼差しだった。戦場での彼の采配は、常に冷静で、決して無謀な力押しはしなかった。そして、何よりも部下を、民を慈しむ心を持っていた。
「奉先、力だけに頼るな。将たる者、智勇を兼ね備えねばならん。そして、最も大切なのは『義』だ。民を守り、主君に忠を尽くす。その心を忘れれば、どれほど強くとも、ただの獣と同じぞ」
丁原の言葉が、耳の奥で蘇る。獣と同じ…か。俺は、ただ敵を屠ることに悦びを感じる、獣になりかけていたのではないか? 呂布は、知らず知らずのうちに、傍らに立てかけてあった方天画戟の柄を強く握りしめていた。この比類なき力は、何のためにあるのだ?
「奉先様、丁原様がお見えになりました」
下から、張譲の声がした。呂布はハッと我に返り、己の内面ばかりに向いていた意識を、現実へと引き戻した。彼は深呼吸を一つすると、物見櫓から静かに下りていった。
砦の中庭には、丁原が数名の供回りと共に立っていた。歳の頃は五十を過ぎ、顔には深い皺が刻まれているが、その体躯は未だ武人としての精悍さを失っていない。呂布は、彼の前に進み出ると、恭しく片膝をついた。
「親父殿! ご足労、痛み入ります」
「うむ、奉先。面を上げよ」丁原の声は、落ち着いていて、呂布の心の揺らぎを見透かしているかのように深く響いた。「先の戦、報告は受けた。三百で五千の匈奴を退けたとのこと、見事な働きであった。だが…」
丁原は言葉を切ると、厳しい視線で呂布を見据えた。
「…犠牲も大きかったと聞く。お前は何を学んだ?」
その問いに、呂布は言葉に詰まった。丁原は、手放しで称賛するだけではない。勝利の裏にあるもの、そして将としての責任を、彼に問いかけているのだ。
「…あの時、張譲の言う通り退いていれば、彼らは死なずに済んだのかもしれません。しかし、それでは民を見捨てることになる…私には、何が正解だったのか、分かりません、親父殿」
彼は、正直に、そして悔しさを滲ませて答えた。
「そうか」丁原は短く応えると、黙って呂布の肩に手を置いた。その武骨な手の温かさが、呂布の心にじんわりと沁みる。「奉先。戦に犠牲はつきものだ。将たる者、それを恐れていてはならん。だが、忘れることも許されん。その死を無駄にせず、次に活かす。それこそが、将の務めであり、死んでいった者たちへの真の弔いとなるのだ」
丁原は、諭すように、しかし力強く語った。
「お前の武は、天賦のものだ。だが、それは天がお前に与えた『役目』でもある。その力を、この并州の民を守るために、ひいては漢の安寧のために使え。決して、己の武名や、ましてや目先の欲のために振-ってはならん。良いか、奉先。どれほどの駿馬を得ようとも、どれほどの宝を得ようとも、決して『義』を見失うな。物や欲に目が眩めば、人は必ず道を踏み外す。…そのことを、ゆめ忘れるな」
その言葉は、まるで雷のように呂布の魂を撃ち、彼の心の最も深い場所に、消えない烙印のように刻み込まれた。理由は分からない。だが、この言葉だけは、決して忘れてはならないのだと、魂が叫んでいるかのようだった。
「……はい! この呂布、親父殿の教え、生涯忘れませぬ!」呂布は、顔を上げ、丁原の目を真っ直ぐに見つめ返し、力強く答えた。心の迷いは消え去り、代わりに、己の進むべき道が、よりはっきりと見えた気がした。
丁原は、そんな呂布の様子に満足げに頷くと、ふっと表情を和らげた。
「さて、堅苦しい話はこれくらいにしよう」丁原は悪戯っぽく笑みを浮かべた。「実はな、奉先、お前に渡したいものがある。并州最高の武人たる奉先には、并州最高の相棒が必要だと思い、長年、西域の隊商に探しさせていたのだ。先日、ついにこの逸材が見つかったとの報せがあってな」
丁原が合図すると、供回りの者が、一頭の馬を慎重に引いてきた。その馬が姿を現した瞬間、その場にいた誰もが息を呑んだ。砦の兵士たちの間からも、どよめきが起こる。
全身が、夕陽の炎を映したかのように、燃えるような深紅の毛で覆われている。鬣も尾も、まるで上質な絹のように艶やかだ。その体躯は他のどの馬よりも一回り大きく、筋肉は鋼のように隆々とし、四肢は大地を鷲掴みにするかのように力強い。そして何より、その双眸。他の獣とは明らかに違う、高い知性と、抑えきれないほどの激しい気性を宿し、力強い光を放っていた。それはもはや、単なる馬ではなかった。一つの魂を持った、神話から抜け出してきたかのような存在感を放っていた。
「こ、この馬は…!?」呂布の声は、驚きと興奮に震えていた。
「うむ。一日に千里を駆けるという、伝説の汗血馬よ。名はまだない。どうだ、奉先。お前の武に応えられるのは、この馬くらいであろう?」
丁原は、まるで我が子の晴れ姿を見るかのように、誇らしげに言った。
呂布は、吸い寄せられるように、その赤い名馬に近づいた。馬は、見慣れぬ呂布を鼻を鳴らして激しく威嚇し、誰も近づけさせない。しかし、呂布が一切の殺気を消し、ただ純粋な武人としての敬意を持って近づくと、馬は一瞬身を固くしたが、やがて呂布の手の温もりを受け入れるかのように、おとなしくなった。呂布の手を通して、何か言葉にならないものが、一人と一頭の間で交わされたかのようだった。
「……」呂布は言葉もなかった。ただ、この馬こそが、自分が探し求めていたもの、己の魂の片割れであるかのような、強い確信を感じていた。(この馬となら…どんな強敵とも渡り合える!)彼の武への渇望が、新たな可能性への期待によって、さらに燃え上がるのを感じた。
ふと、彼は傍らに繋がれていた愛馬「飛雪」に目をやった。長年、苦楽を共にしてきた白い駿馬。飛雪もまた、赤い名馬の存在に何かを感じているのか、少し寂しげに鼻を鳴らした。呂布は飛雪の元へ歩み寄り、その首筋を優しく撫でた。
「飛雪…お前のおかげで、俺はここまで来れた。感謝している。これからは…ゆっくり休め。故郷で、最高の世話を受けさせてやるからな」
別れの言葉を告げると、彼は再び丁原に向き直り、今度は地面に額をつけるほど深く頭を下げた。
「親父殿! これほどの…これほどの御恩、この呂布、生涯をかけてお報いいたします!」
その声は、深い感謝と、抑えきれない興奮、そして未来への決意に満ち溢れていた。
(この馬となら…この『赤き風』となら、俺はもっと高く飛べる…! どんな強敵が現れようとも! 親父殿の教えを胸に、この力で、この并州を、必ずや守り抜いてみせる!)
鉛色の空の下、若き呂布の心には、赤い名馬との運命的な出会いによって、新たな、そしてより強固な決意の炎が、天をも焦がさんばかりに燃え上がっていた。彼の真の伝説は、今、この瞬間から始まろうとしていた。