表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/227

幕間ノ二:計れぬ器、空っぽの杯

幕間ノ二:計れぬ器、空っぽの杯

冀州きしゅう軍の陣営は、撤収の喧騒に満ちていた。

兵士たちは、故郷へ帰れるという安堵と、志半ばで戦を終えることへのやるせなさが入り混じった、複雑な表情で慌ただしく荷をまとめている。その喧騒の中心、ひときわ豪奢な幕舎の中で、盟主であったはずの男、袁紹本初は、不機嫌そうに酒杯を重ねていた。

「…忌々しい。実に、忌々しいわ!」

傍らには、腹心の軍師である沮授そじゅと、側近の逢紀ほうきが控えている。

「董卓は滅んだというのに、何の得もなかったではないか! 洛陽は焼け野原、帝は西の果て。我らは、ただ兵と時を無駄にしただけだ!」

袁紹の怒りは、董卓ではなく、自らの面目を潰した現実そのものに向けられていた。

その様子を、沮授は冷めた目で見つめていた。

(…このお方には、見えておらぬのだ)

この連合の瓦解が何を意味するのか。そして、この酸棗さんそうの地で、一体何が生まれ、何が動き出したのかを。

彼の脳裏に浮かぶのは、袁紹の顔ではない。

二人の、規格外の男の姿であった。

一人は、曹操孟徳。連合を見限り、単独で董卓を追撃した、あの燃えるような野心。あの男は、この敗北を糧とし、必ずや、より強かになって中原に牙を剥くだろう。

そして、もう一人。

沮授の思考を、より深く、そして根源的な畏怖をもって支配する男。

并州の呂布奉先。

虎牢関での、あの神がかり的な武。そして、滎陽で曹操を救うべく、董卓軍の精鋭部隊を単騎で蹂躙したという、にわかには信じがたい報告。我が河北が誇る顔良、文醜とて、果たしてあの武の奔流を前に、立っていられるかどうか。いや、問題は武勇だけではない。

何よりも理解不能なのは、曹操を救うためだけに、自軍を危険に晒してまで追撃したという、あの愚直なまでの「義」。

(あの男は、獣だ。それも、人の言葉を解さぬ、神聖な獣…)

沮授は、呂布という存在を、自らの頭の中にある「兵法」という物差しで測ろうと試みる。だが、何度試みても、その物差しが砕け散ってしまうのだ。

利益で動かぬ。恐怖に屈せぬ。ただ、己が信じる「義」という、あまりにも曖昧で、不確かなもののために、平然と命を懸ける。

その思考回路は、人の理の外にあった。

(御しきれぬ…)

それが、沮授が出した結論だった。

あの男は、敵に回せば厄災だが、味方に引き入れても、いつ牙を剥くか分からぬ危険な存在。袁紹様のような器では、到底、飼いならすことなどできはしない。

「沮授よ」袁紹が、不意に声をかけた。「并州の呂布…あの男、どう思う。丁原は老い、呂布はただの田舎武者。我が河北の威光を示せば、容易く膝を折るであろう?」

そのあまりにも無知な問いに、隣にいた逢紀が、待ってましたとばかりに追従する。

「殿の仰る通り。あの呂布とかいう男、戦場では多少役に立つようですが、所詮は丁原に手綱を引かれた暴れ馬。主の丁原ごと威圧すれば、容易く従いましょう。いずれ使者を送り、友好の証として馬や鉄を献上させるべきかと存じます」

その軽薄なやり取りを聞きながら、沮授の背筋を、冷たい汗が流れた。

(…愚か者どもめ…)

(お前たちは、眠れる龍の髭を、自らつまみに行こうとしているのだ…!)

彼は、静かに、しかし、はっきりと進言した。

「殿。呂布は、今はまだ北方の荒野に伏す一匹の狼に過ぎませぬ。ですが、あの狼は、いずれ天を翔ける龍となるやもしれません。今は、決して刺激なさいますな。下手に手を出せば、こちらが手痛い火傷を負うことになりましょうぞ」

「何を臆病な!」袁紹は、沮授の言葉を鼻で笑った。「まあ良い。その件は、いずれ考えよう」

沮授は、それ以上何も言わず、深く頭を下げた。

これ以上、何を言っても無駄だ。このお方は、いずれ必ず、自らの驕りによって、あの神聖な獣の怒りを買うことになるだろう。

沮授は、幕舎の隙間から、西の空を見やった。

并州の方角へと去っていく、あの赤い疾風の幻影が見えるような気がした。

(呂布奉先…貴様は、一体何者なのだ…?)

(この乱世において、貴様のその『義』は、果たして光となるのか、それとも、全てを焼き尽くす災いの炎となるのか…)

河北の軍師は、初めて、自らの知略では計り知れぬ「天命」の存在を前に、静かな戦慄を覚えていた。

連合の解散は、彼に、天下の覇権よりも先に、まず排除せねばならぬ、巨大な脅威の存在を、はっきりと認識させたのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ