幕間ノ二:計れぬ器、空っぽの杯
幕間ノ二:計れぬ器、空っぽの杯
冀州軍の陣営は、撤収の喧騒に満ちていた。
兵士たちは、故郷へ帰れるという安堵と、志半ばで戦を終えることへのやるせなさが入り混じった、複雑な表情で慌ただしく荷をまとめている。その喧騒の中心、ひときわ豪奢な幕舎の中で、盟主であったはずの男、袁紹本初は、不機嫌そうに酒杯を重ねていた。
「…忌々しい。実に、忌々しいわ!」
傍らには、腹心の軍師である沮授と、側近の逢紀が控えている。
「董卓は滅んだというのに、何の得もなかったではないか! 洛陽は焼け野原、帝は西の果て。我らは、ただ兵と時を無駄にしただけだ!」
袁紹の怒りは、董卓ではなく、自らの面目を潰した現実そのものに向けられていた。
その様子を、沮授は冷めた目で見つめていた。
(…このお方には、見えておらぬのだ)
この連合の瓦解が何を意味するのか。そして、この酸棗の地で、一体何が生まれ、何が動き出したのかを。
彼の脳裏に浮かぶのは、袁紹の顔ではない。
二人の、規格外の男の姿であった。
一人は、曹操孟徳。連合を見限り、単独で董卓を追撃した、あの燃えるような野心。あの男は、この敗北を糧とし、必ずや、より強かになって中原に牙を剥くだろう。
そして、もう一人。
沮授の思考を、より深く、そして根源的な畏怖をもって支配する男。
并州の呂布奉先。
虎牢関での、あの神がかり的な武。そして、滎陽で曹操を救うべく、董卓軍の精鋭部隊を単騎で蹂躙したという、にわかには信じがたい報告。我が河北が誇る顔良、文醜とて、果たしてあの武の奔流を前に、立っていられるかどうか。いや、問題は武勇だけではない。
何よりも理解不能なのは、曹操を救うためだけに、自軍を危険に晒してまで追撃したという、あの愚直なまでの「義」。
(あの男は、獣だ。それも、人の言葉を解さぬ、神聖な獣…)
沮授は、呂布という存在を、自らの頭の中にある「兵法」という物差しで測ろうと試みる。だが、何度試みても、その物差しが砕け散ってしまうのだ。
利益で動かぬ。恐怖に屈せぬ。ただ、己が信じる「義」という、あまりにも曖昧で、不確かなもののために、平然と命を懸ける。
その思考回路は、人の理の外にあった。
(御しきれぬ…)
それが、沮授が出した結論だった。
あの男は、敵に回せば厄災だが、味方に引き入れても、いつ牙を剥くか分からぬ危険な存在。袁紹様のような器では、到底、飼いならすことなどできはしない。
「沮授よ」袁紹が、不意に声をかけた。「并州の呂布…あの男、どう思う。丁原は老い、呂布はただの田舎武者。我が河北の威光を示せば、容易く膝を折るであろう?」
そのあまりにも無知な問いに、隣にいた逢紀が、待ってましたとばかりに追従する。
「殿の仰る通り。あの呂布とかいう男、戦場では多少役に立つようですが、所詮は丁原に手綱を引かれた暴れ馬。主の丁原ごと威圧すれば、容易く従いましょう。いずれ使者を送り、友好の証として馬や鉄を献上させるべきかと存じます」
その軽薄なやり取りを聞きながら、沮授の背筋を、冷たい汗が流れた。
(…愚か者どもめ…)
(お前たちは、眠れる龍の髭を、自らつまみに行こうとしているのだ…!)
彼は、静かに、しかし、はっきりと進言した。
「殿。呂布は、今はまだ北方の荒野に伏す一匹の狼に過ぎませぬ。ですが、あの狼は、いずれ天を翔ける龍となるやもしれません。今は、決して刺激なさいますな。下手に手を出せば、こちらが手痛い火傷を負うことになりましょうぞ」
「何を臆病な!」袁紹は、沮授の言葉を鼻で笑った。「まあ良い。その件は、いずれ考えよう」
沮授は、それ以上何も言わず、深く頭を下げた。
これ以上、何を言っても無駄だ。このお方は、いずれ必ず、自らの驕りによって、あの神聖な獣の怒りを買うことになるだろう。
沮授は、幕舎の隙間から、西の空を見やった。
并州の方角へと去っていく、あの赤い疾風の幻影が見えるような気がした。
(呂布奉先…貴様は、一体何者なのだ…?)
(この乱世において、貴様のその『義』は、果たして光となるのか、それとも、全てを焼き尽くす災いの炎となるのか…)
河北の軍師は、初めて、自らの知略では計り知れぬ「天命」の存在を前に、静かな戦慄を覚えていた。
連合の解散は、彼に、天下の覇権よりも先に、まず排除せねばならぬ、巨大な脅威の存在を、はっきりと認識させたのであった。




