第十三ノ二話:長安の狼たち
第十三ノ二話:長安の狼たち
決行は、数日後の夜。董卓がいつものように宮殿で宴に酔いしれ、その警戒が最も緩む時を狙った。
「な、何奴だ!騒がしいぞ!」
宮殿の外の喧騒に、董卓が不機嫌な声を上げる。しかし、次の瞬間、血相を変えた近習が転がり込んできた。
「申し上げます! 李傕、郭汜両将軍が、兵を率いてこの宮殿を…!」
「なんだとぉ! あの犬どもめが!」
董卓は、酒甕を床に叩きつけ、壁に掛けてあった愛剣を引き抜いた。若い頃は西涼で鳴らした武勇の血が、久方ぶりに騒ぐ。
「わしを誰だと思っておる! 皆殺しにしてくれるわ!」
だが、屋敷の扉が蹴破られ、なだれ込んできたのは、昨日まで自分に平伏していたはずの、見知った顔の西涼兵たちだった。彼らの目は、恐怖と、そして主君の富への欲望に血走っていた。多勢に無勢。董卓は数人の兵を斬り伏せたが、背後から突き出された槍に脚を貫かれ、その場に崩れ落ちた。
「ぐ…おぉ…! き、貴様ら…! わしを裏切るのか! 赤い鬼の手先か!」
血の海に倒れながら、彼は自分を取り囲む李傕と郭汜の顔を、妄想と現実の区別もつかぬ目で睨みつけた。
李傕は、冷たい目で見下ろしながら、静かに言った。「これも、乱世でございますよ、董卓様。貴方様から、我らは多くを学びましたのでな」
それが、暴君が聞いた、最後の言葉だった。無数の刃が、容赦なく、その巨体に振り下ろされた。
「董卓が…死んだ…?」
その報に、連合軍の陣営は一時、歓喜に沸いた。ついに、国を乱した元凶が滅びたのだ、と。兵士たちは雄叫びを上げ、諸侯たちは勝利の酒を酌み交わそうとした。
だが、その祝祭の空気は、数日と経たずに氷のように冷え切った。情報を探らせていた斥候たちが、長安の新たな状況を伝えてきたからだ。
董卓を討った李傕と郭汜は、その弟分の張済、樊稠らと共に、董卓軍の主力を完全に掌握。彼らは、董卓の死による混乱を瞬く間に鎮圧し、鉄の結束をもって長安と帝を支配下に置いたという。董卓という暴君はいなくなったが、代わりに、より統制の取れた、飢えた狼の群れが、都を支配することになったのだ。
この報は、連合軍の諸将に、冷水を浴びせた。
「…結局、何も変わらんではないか」
呂布は、焚き火に唾を吐き捨てるように言った。暴君が一人消え、代わりに新たな賊徒の集団が現れただけ。漢室の権威は、依然として地に堕ちたままだった。
軍議の席で、盟主・袁紹が重々しく口を開いた。
「諸君、董卓は滅びた。我らの大義は、ここに果たされたと言えよう」
その言葉に、多くの諸侯が頷く。
だが、その空気を読まずに、公孫瓚が鋭く切り込んだ。「盟主、何を仰せられる。帝は、未だ賊の手にありますぞ! 我らの真の目的は、帝を救出し、漢室を復興することではなかったのですか!」
彼は、袁紹との対立もあり、ここで正論を吐くことで自らの存在感を示そうとした。
その言葉に、袁術がせせら笑った。
「公孫瓚殿は、お固いな。では、帝を救い出した後、誰がその面倒を見るのだ? 誰が、荒れ果てた都を復興させるのだ? その莫大な費用は、一体どこから出す?」
「それに」と別の諸侯が続く。「帝を許都に迎え、再び朝廷が開かれたとしよう。そうなれば、我らは帝の臣下に戻り、そのご命令に従わねばならん。もはや、自由に兵を動かすことも、領地を広げることもできなくなる。果たして、それが我らにとって得な話かな?」
彼らの本音が、次々と漏れ出す。
帝は、救い出してしまえば、金のかかる厄介者であり、自らの野望の枷となる存在。むしろ、遠い長安で賊徒の傀儡となっている今の状況こそが、彼らにとって最も都合が良いのだ。
「董卓を討つ」という、兵士や民を納得させるための「建前」は、もはや不要となった。
「それに」袁紹の軍師・沮授が進み出て、冷静に付け加えた。「李傕、郭汜も西涼の古強者。董卓軍の主力をそのまま受け継いでいる。我らが長安へ進軍すれば、多大な犠牲は免れまい。かの曹操殿ですら、追撃の末に大敗を喫したのです。そのような割に合わぬ戦、すべきではありますまい」
沮授は、曹操の敗北を例に出すことで、追撃の危険性を巧みに強調した。
もはや、議論の余地はなかった。
彼らにとって、帝を救い、漢室を復興するという理想は、どうでもよくなっていた。目の前にあるのは、「強大な賊徒が支配する、遠い西の都」という、関わるだけ損をする厄介な現実だけ。
この議論が、かろうじて結束を保っていた反董卓連合に、とどめを刺した。董卓という共通の敵がいなくなった今、彼らが酸棗の地に留まる理由は、もはや何一つとして無くなってしまったのである。




