幕間:暴君の見る悪夢
幕間:暴君の見る悪夢
遠く未央宮は、狂乱の宴の喧騒で溢れていたが、その宴の中心にいるはずの男の寝室は、対照的に、墓場のような静寂と冷気に満ちていた。
「―――ひっ!」
董卓は、自らの短い悲鳴で跳ね起きた。
豪奢な寝台の上。だが、そこは安息の場所ではなかった。全身は脂汗で濡れ、冷たい絹の寝具が死人の経帷子のように肌に張り付く。心臓が耳元で暴れているかのようにうるさい。喉は灼けるように渇き、息を吸っても吸っても、肺に空気が満たされない。
まただ。また、あの夢を見た。
目を閉じても、開けても、まぶたの裏にはあの光景が焼き付いて離れない。
赤。
血飛沫の赤。燃える戦袍の赤。神馬・赤兎の赤。視界の全てが、おぞましい赤色に染め上げられている。そして、その地獄の中心で、あの男の振るう方天画戟の刃だけが、氷のように冷たく、白く光る。
「なぜだ! わしは天下の相国ぞ! 漢の全てをその手に握る董卓だ! なぜ、并州の田舎武者一人の幻影に、これほど苛まれねばならんのだ!」
自らを鼓舞しようと叫ぶが、その声は空しく響くだけ。彼はよろめきながら寝台を降り、壁に掛けられた鏡の前に立った。そこに映っていたのは、かつての覇気に満ちた暴君の姿ではなかった。ただ、やつれ果て、恐怖に顔を引きつらせた、哀れな老人の姿があるだけだった。
「違う! わしは怯えてなどおらん!」
董卓は、己の姿を映す鏡を、拳で叩き割った。ガラスが砕け散る甲高い音と共に、拳から血が流れる。その痛みだけが、かろうじて、ここが現実であることを教えてくれた。
(そうだ、わしは用心深いだけだ。奴は危険だ)
彼は、支離滅裂な自己正当化の言葉を、心の中で繰り返す。
(奴は、ただ強いだけではない。あの男の戦いには、意味が分からぬ『義』がある。曹操を助けるなどという、何の得にもならぬことのために、平然と命を懸ける。理解できぬものこそ、最も恐ろしい。だから、奴に繋がる可能性のある者は、全て排除せねばならん。それが、天下を預かる者の、正しい判断なのだ。わしは、間違っておらん!)
宴だ。宴を開かねばならぬ。わしが健在であることを、わしがこの長安の支配者であることを、わし自身に、そしてどこかでこちらを見ているやもしれぬ、あの赤い鬼に、示してやらねばならんのだ。
その思考は、もはや狂気の円環。恐怖から逃れるために暴政を行い、その暴政が新たな不安を生み、さらに恐怖を増幅させる。
ふと、彼の脳裏に、最近の李傕と郭汜の顔が浮かんだ。そうだ、あの者たちの目…。わしを見るあの目には、かつての畏敬はない。憐れみと、そして侮りが宿っている。
「奴らも…奴らも、わしが呂布に怯えていると知っているのだ…」
「いつか寝返る…呂布に、わしの首を差し出すつもりやもしれん…」
外部の敵への恐怖は、ついに内部の味方への、妄想じみた疑心暗鬼と憎悪へと転化した。
「許さん…許さんぞ…! 呂布よりも先に、わしの足元にいる裏切り者どもを、根絶やしにしてくれるわ!」
夜が明け始め、窓から死人の肌のような青白い光が差し込む頃、董卓は、割れた鏡の破片が散らばる床の上で、赤子のようにうずくまっていた。
その口からは、もはや意味のある言葉は出てこない。
「あかい…あかい…こわい…」
ただ、うわ言のように繰り返しているだけだった。
暴君は、もはや誰とも戦ってはいなかった。
彼は、自らの心の中に作り出した「呂布奉先」という名の、巨大な怪物とたった一人で戦い、そして、完膚なきまでに敗れ去ったのだ。
彼の肉体が、腹心の刃に倒れるよりもずっと前に、その魂は、既に悪夢の中で息絶えていた。




