第十三話:暴君の恐怖
第十三話:暴君の恐怖
長安の夜は、病的な熱気に満ちていた。
遠く未央宮からは、夜ごと繰り返される狂乱の宴の喧騒が、まるで地の底から響く呻き声のように、街の隅々にまで漏れ聞こえてくる。しかし、城内の一角、李傕の私室に漂う空気は、その熱とは対極の、氷のような冷たさと静寂に支配されていた。
「まただ、李傕。董卓様は今宵も宴に明け暮れておられる。まるで、何かから逃げる獣のようにな」
相棒の郭汜が、苛立ちを隠しもせずに酒杯を呷り、吐き捨てるように言った。その目には、長年仕えてきた主君への侮蔑と、先の見えぬ現状への焦りが、濁った光となって揺らめいている。
「声を落とせ、郭汜。壁に耳あり、だ」
李傕は、静かに杯を傾けながら、冷静に相棒を制した。だが、その落ち着き払った声とは裏腹に、彼の腹の底でもまた、郭汜と同じ黒い感情が渦巻いていた。
「今日、また一人、并州出身の役人が斬られたそうだ。一家皆殺しだとな」
「理由は?」
「『呂布と内通の疑いあり』。もはや、それだけだ」
郭汜は、忌々しげに舌打ちした。呂布奉先。たった一人の男の名が、今やこの長安では禁句となっていた。滎陽の死線を命からがら潜り抜けてきた兵士たちが、震えながら語ったあの日の光景。その話は尾ひれがつき、今や子供を黙らせるための鬼物語のように、都中に蔓延していた。
『赤い鬼神が、空を駆けた』
『その戟が一閃すれば、人の首が十は飛んだ』
『徐栄将軍の精鋭が、赤子の手をひねるように蹂躙された』
噂は恐怖となり、恐怖は絶対的な権力者であるはずの董卓を、狂気の檻へと閉じ込めた。
李傕は、昼間の練兵場の光景を思い出していた。かつて西涼の風雨にその身を晒し、どんな強敵を前にしても怯むことのなかった兵士たちの目に、今は精悍さの代わりに、怯えと疑心暗鬼の色が濃く浮かんでいる。自分が通りがかると、ひそひそと交わされていた呂布の噂話が、蜘蛛の子を散らすように止まる。この空気こそが、何よりも危険な兆候だった。我ら西涼兵の強さの源は、揺るぎない結束と、主君への絶対的な信頼にあったはずだ。その両方が、今、董卓自らの手によって、根元から腐り始めている。
その時、扉が静かに叩かれ、董卓からの使者が入室してきた。尊大な態度で、冷ややかに告げられた命令に、李傕は全身の血が凍るのを感じた。
「董卓様より通達である。これより城内の警備を一層強化し、不審な者は身分を問わず捕縛せよ。特に、西涼出身者同士で徒党を組むがごとき動きを見せた者は、謀反の兆しとみなし、厳罰に処す、とのことだ」
使者が去った後、部屋には重い沈黙が落ちた。郭汜は、怒りのあまり言葉も出ないといった様子で、唇をわななかせている。李傕は、手にしていた命令書を、音もなくゆっくりと握りつぶした。
董卓は、もはや我ら西涼の絆すら信じられぬと、そう言っているのだ。
(…終わったな)
李傕の心の中で、長年抱いてきた忠誠心という名の細い糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
その夜、李傕の私室には、郭汜だけでなく、信頼の置ける数名の西涼の将校たちが、覚悟を決めた顔で集まっていた。部屋の空気は、決起前夜のそれ特有の、張り詰めた熱を帯びている。
「皆、聞いたな」
李傕は、集まった者たちの顔を一人一人見渡し、静かに、しかし腹の底から響くような声で言った。
「董卓様は、もはや我らを信用しておられぬ。呂布という幻影に怯え、我らの結束を、その手で断ち切ろうとなさっている。このままでは、我らは呂布と刃を交える前に、董卓様に疑心で殺されるか、あるいは士気を失った軍が崩壊し、全てを失うかのどちらかだ」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「我らが生き残る道は、一つしかない」
李傕は、窓の外、狂乱の宴の光が漏れる宮殿を見据えた。
(董卓様、あんたから多くを学んだ。力こそが全てであり、非情でなければこの乱世は生き抜けぬと…)
(だが、虎は己の影に怯え、牙を失った。ならば、その地位も、富も、この長安も…飢えた我ら狼が、謹んで受け継がせていただく)
長安の夜闇の中、新たな野望を抱いた狼たちの牙が、静かに、しかし鋭く研がれていた。彼らの標的は、遠い并州の鬼神ではない。まずは、檻の中で震える老いた虎、董卓その人であった。




