幕間:戦の後で
幕間:戦の後で
勝利の喧騒が去った後の陣営は、痛々しいほどの静寂に包まれていた。
傷ついた兵士たちの呻き声、武具を片付ける金属音、そして、仲間を失った者たちの、言葉にならない嗚咽が、冷たい夜風に乗って微かに聞こえてくる。
呂布は、自らの幕舎で、一人、酒を呷っていた。
頬の傷は既に手当てを終え、ヒリヒリとした痛みを主張している。だが、それ以上に彼の心を苛んでいたのは、別の種類の痛みだった。
三十、という数字が、彼の頭から離れない。この戦いで失われた、三十の命の重み。
彼は幕舎を出ると、誰にも告げずに、陣営の片隅に設けられた仮の埋葬地へと向かった。
そこには、泥と血に汚れたままの戦袍に包まれた、三十の亡骸が静かに横たえられていた。月明かりが、彼らの安らかとは言えない顔を青白く照らし出している。
呂布は、その一体一体の前に膝をつき、その顔を記憶に刻みつけるように、じっと見つめた。
(…李三、お前は新米の頃、震える俺の背中を叩いてくれたな。「大丈夫だ、奉先。俺たちがついてる」と笑って…)
(…王五、お前はいつも、故郷に残してきた娘の自慢話ばかりしていた。「今度の休みには、新しい髪飾りを買ってやるんだ」と、あんなに嬉しそうに…)
(…趙のじいさん、あんたはいつも俺の無茶を諫めてくれた。「力押しだけでは勝てませんぞ」と。そのあんたが、俺の無茶のせいで…)
一人ひとりの顔を見るたびに、生前の彼らとの何気ない記憶が、鋭い刃となって呂布の胸を抉る。
彼らは、俺の指揮の下で死んだのだ。
武人として戦場で命を落とす覚悟は、自分も、彼らも持っていたはずだ。だが、本当にそれで良かったのか? 彼らの死は、避けられなかったのか?
「…すまない」
絞り出すような声が、呂布の唇から漏れた。
誰に言うでもない、謝罪の言葉。それは、将としての判断への後悔であり、自らの力の限界への絶望であり、そして、守るべきものを守りきれなかった男の、痛切な叫びであった。
彼は立ち上がり、夜空を仰いだ。鉛色の雲は晴れず、星は見えない。
(丁原殿は、いつも言っていた。『義とは民を守ることだ』と。だが、兵もまた、并州の民ではないのか。彼らを守れずして、何が『義』か。何が『飛将』か…)
力があれば、全てを守れると思っていた。圧倒的な武があれば、犠牲など出さずに済むと、心のどこかで驕っていたのかもしれない。だが、現実は違った。
自らの武は、三十の命を救えなかった。その事実が、彼の誇りを、根底から揺さぶっていた。
その時、背後から、そっと外套がかけられた。振り返ると、そこには心配そうな顔をした張譲が立っていた。
「奉先様、体を冷やしますぞ」
「…張譲か」
「…彼らのこと、悔やんでおいでか」
呂布は答えなかった。それが何よりの答えだった。
「…奉先様」
張譲は、静かに、しかし諭すように言った。
「我らは武人。いつかはこのように土に還る覚悟で生きております。彼らもまた、并州を守る盾となれたこと、そして何より、あなた様と共に戦えたことを、誇りに思っているはずでございます。あなたの下で死ねたのなら、本望だと…」
「…黙れ」
呂布は、低い声で遮った。そして、絞り出すように呟いた。
「…張譲。貴様もそう思うのか。俺のために死ぬのが、本望だと?」
その問いは、あまりに冷たく、そして絶望的な響きを持っていた。
張譲は、返す言葉を見失った。主君の武勇を誇りに思うことと、その武勇のために命を散らすこと。その間にある、決して埋まらない溝の深さに、彼は初めて気づかされた気がした。
「…慰めは要らん。俺は、俺の命令で死んだ者たちの顔を、忘れたくはないだけだ」
呂布はそう言い残し、闇の中へと歩み去った。
張譲は、それ以上何も言わなかった。ただ、主君の大きな背中が、今、ひどく小さく、震えているように見えた。
彼は、この若き獅子が、ただの猛将ではないことを知っていた。その強すぎる力の裏側で、誰よりも深く傷つき、苦悩する、不器用で、孤独な魂を。
呂布は、再び亡骸たちに向き直ると、静かに、しかし深く、頭を下げた。
それは、勝利者の傲慢さなど微塵もない、一人の人間としての、死者への真摯な祈りであった。
この夜の痛みと悔恨が、呂布という男を、ただの「鬼神」から、人の痛みを背負う「将」へと、僅かに、しかし確実に変えていくことになる。彼が真の「義」の意味を知るための、長く、険しい道のりは、まだ始まったばかりであった。