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第十二ノ二話:戦勝の先

第十二ノ二話:戦勝の先

滎陽での勝利は、しかし、後味の良いものではなかった。

夜営の焚き火が、疲弊しきった兵士たちの顔を頼りなく照らし出している。勝利の歓声はない。あるのは、遠い故郷を思う重い沈黙と、鎧を脱ぐ気力もなく、ただ虚空を見つめる男たちの姿だけだ。呂布軍もまた、連戦と長距離の急行軍で、その限界を迎えようとしていた。


呂布の陣幕の中も、同じ空気が支配していた。

「…これで、終わりか」

呂布は、床に広げられた地図の、遥か西にある「長安」の二文字を睨みつけながら、悔しげに呟いた。董卓の首まで、あと一歩。だが、その一歩が、今の自分たちには地平線の彼方ほどにも遠く感じられた。磨き上げたはずの方天画戟が、今はただの重い鉄の棒のように思える。何のために、俺たちはここまで来たのだ。


「左様ですな。我らの戦は、ここまででしょう」

傍らで冷静に茶を啜っていた陳宮が、静かに同意する。その声には、労いの響きも、勝利を称える響きもなかった。ただ、冷徹な事実を告げる、軍師としての響きだけがあった。

「兵たちの疲弊もさることながら、兵糧が尽きかけております。故郷を発ってから、我らは休みなく駆け続けてきた。これ以上は、兵たちが持ちますまい」


「だが、このまま引き下がれば、董卓に息を吹き返す時間を与えるだけだ!」

傍らに控えていた張遼が、やるせないといった表情で口を挟む。彼の槍はまだ血の匂いを放ち、その瞳には戦い足りぬという、若武者らしい光が宿っていた。

「奴は、必ずや我らに復讐の兵を向けるはず。ならば、いっそ、この勢いのまま長安へ…!」


「文遠。その先を言うな」

呂布は、張遼の言葉を静かに制した。

(俺も、同じ気持ちだ…)

心の中では、張遼の言葉に強く同調していた。このまま引き下がることの口惜しさ。董卓を討ち損なったことへの焦燥感。だが、虎牢関での戦いを経て、彼は学んでいた。ただ猛るだけでは、何も守れないことを。

「…陳宮の言う通りだ。今の我らは、刃こぼれのした剣と同じ。これ以上振るえば、折れてしまうだろう」


その呂布の言葉に、張遼は驚いて主君の顔を見た。かつての奉先様ならば、自分の意見に乗り、真っ先に長安へ駆けて行ったはずだ。この人は、変わった。いや、変わろうとしているのだ。その事実に、張遼は一抹の寂しさと、それ以上の頼もしさを感じていた。


陳宮は、呂布の変化に満足げに頷くと、おもむろに地図の一点を指さした。

「某が懸念しておりましたのは、長安という『目に見える敵』そのものよりも、むしろ、我らの背後にいる『目に見えぬ敵』にございます」

彼が指したのは、酸棗さんそうに残った連合軍の諸侯たちの位置だった。


「どういうことだ?」

「今、長安では、董卓が我らの追撃に怯えているはず。ですが、同時に、酸棗で見くびっていた我らが抜け駆けして手柄を立てたことに、嫉妬と警戒心を燃やしていることでしょう」

陳宮の瞳が、怜悧な光を宿す。

「もし、我らが長安へ向かい、董卓軍と泥沼の戦を繰り広げている隙に、袁紹あたりが背後から我らの并州を狙ったら? あるいは、漁夫の利を狙って、この滎陽を奪いに来たら? 我らは、完全に孤立無援となり、進むも地獄、退くも地獄となります」


「…つまり、俺たちは、董卓を討つこともできず、かといって、何の手柄もなしに、このまま引き下がるしかないというのか…」

張遼は、悔しさに拳を握りしめた。戦に勝ったというのに、まるで敗者のような気分だった。


「いや」

陳宮は、そこで初めて、不敵な笑みを浮かべた。

「我らは、既に、天下の誰もが成し得なかった、大きな手柄を立てました。そして、今は待つのです」

「待つ、だと?」

呂布が、訝しげに陳宮を見た。その声には、武人としての本能的な反発が滲んでいた。


「はい。虎は、ただ牙を研ぎ澄まし、獲物が自ら弱るのを待つこともある。それこそが、王者の戦い方。董卓という男は、呂布将軍という絶対的な恐怖をその目に焼き付けた。恐怖に駆られた男は、必ずや自滅への道を歩む。彼の配下には、李傕、郭汜といった、一癖も二癖もある西涼の将たちがいる。董卓が彼らを信用しきれなくなった時…長安は、内側から崩れるやもしれません」


呂布は、陳宮の顔をじっと見つめた。その瞳の奥にある、深い知謀の淵。

(…これが、軍師か)

自分には到底見えぬ、戦の裏側、人の心の機微までを読む力。それは、戦場で敵を斬り伏せるのとは全く違う、もう一つの「強さ」の形。彼は、初めて、自らの武と同じくらい、あるいはそれ以上に、この男の知恵を頼らねばならない時があることを、痛感していた。


「…ちっ、分かった。貴公の言う通りにしてやる」

呂布は、舌打ちを一つすると、不満げに顔を背けた。それは、彼のプライドが、この「待つ」という選択を、まだ完全には受け入れられていない証拠だった。

「だが、俺は待つのは性に合わん。今後、長安に何か動きがあれば、誰が止めようと、俺は行くぞ」


その言葉は、彼の成長と、そして変わらぬ猛々しさの両方を示していた。陳宮と張遼は、そんな主君の姿に、苦笑いを浮かべながらも、深く頭を下げた。

こうして、呂布軍は滎陽の地を引き上げ、来るべき「時」を待つこととなった。彼らはまだ知らない。陳宮の予測が、恐ろしいほどの正確さで現実のものとなることを。そして、この戦いで得たものが、董卓の首ではなく、曹操という男に貸し付けた、巨大な「恩」であったということを。

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