幕間:乱世の怪物
幕間:乱世の怪物
敗走の途上、曹操は一人、野営の冷たい土の上に座り、じっと燃える焚き火を見つめていた。周囲では、生き残った兵たちが傷ついた体を休め、悪夢の残滓のような重苦しい沈黙が支配している。彼の腕には、夏侯惇が手当てしてくれた真新しい包帯が巻かれていたが、傷の痛みよりも、心の奥底で燃え盛る屈辱と、そしてそれを上回るほどの、ある男への強烈な印象が、彼の思考を支配していた。
呂布奉先。
脳裏に、あの赤い影が蘇る。
あれは、人の戦ではなかった。戦場の理そのものを、たった一人で捻じ曲げる、厄災。
夜闇を切り裂く紅蓮の閃光。徐栄軍の分厚い陣形が、まるで熱した刃の前の獣脂のように、音もなく溶けていく光景。薙ぎ払われ、突き上げられ、叩き潰される。兵士たちが、人の形を失っていく。
そして、馬上から自分を見下ろした、あの燃えるような、しかしどこか冷めた瞳。
(あれは…人の戦い方ではない…)
曹操は、これまでの人生で数多の豪傑、勇者を見てきた。だが、呂布という男は、その誰とも違っていた。あれは、例えるならば、天災。人の理の外にある、抗うことすら許されぬ、絶対的な力の奔流。
「…孟徳、何を考えている」
傍らで、自らの腕の傷に荒々しく布を巻き付けていた夏侯惇が、心配そうに声をかけた。彼の声は、他の将兵たちが主君に向ける畏敬の念に満ちたそれとは違う。幼い頃から苦楽を共にしてきた、血を分けた兄弟分だけが口にできる、親密さと、そして純粋な憂いが込められていた。
「…いや、元譲か」曹操は、夏侯惇の字を呼び返し、焚き火から目を離さずに答えた。「少し、面白い男に会ったと思ってな」
「面白い、だと?」夏侯惇は、顔をしかめた。「あの呂布のことか。確かに、奴のおかげで我らは命拾いした。それは事実だ。だが…」
彼は、忌々しげに吐き捨てた。
「…好かん。あの男の眼は、まるで我らを憐れんでいるかのようだった。奴は、丁原と共に董卓と敵対しているというが、所詮は并州の田舎武者。そのような男に情けをかけられるのは、我慢ならん屈辱だ!」
彼の隻眼に、武人としてのプライドを傷つけられたことへの、鬱屈した炎が揺らめく。
そこへ、別の声が加わった。曹仁である。彼は、冷静な口調で、しかしその表情には隠しきれない畏怖を浮かべて言った。
「惇兄、気持ちは分かるが、奴はただの田舎武者ではない。その戦いぶり…まるで神話の戦神そのものだ。そして、何よりあの男を支える并州騎兵の練度。あれは、一朝一夕で作り上げられるものではない。奴を侮れば、いずれ我らは、徐栄が味わった以上の苦杯を嘗めることになるぞ」
「ですが、曹仁殿!」今度は、若い李典が、興奮を抑えきれない様子で口を挟んだ。「あの武は、まさしく天下無双! 呂布が駆ければ、道ができる…この目で伝説を見ることができた…などと、不謹慎は承知ですが、武人として、心が震えました!」
彼の言葉に、楽進もまた、小さく、しかし力強く頷いた。武人であればこそ、あの圧倒的な輝きに、ある種の憧憬と、そして絶望に近いほどの力の差を感じずにはいられないのだ。
曹操は、黙って部下たちの会話を聞いていた。
獣、将、伝説…。それぞれが、それぞれの立場で呂布を評している。だが、誰一人として、あの男の本質を捉えきれてはいない。
「借りを返しに来たまでだ」
あの男はそう言った。汜水関で、自分が関羽の出陣を後押ししたことへの、借りを。
(馬鹿な…)
曹操は、再び心の中で嘲笑した。
この乱世において、恩や義理など、己の野望の前には何の価値もない。それが、この世を渡っていくための唯一の方法だと信じてきた。
だというのに、あの男は、たったそれだけの「借り」を返すために、自軍を危険に晒し、董卓軍の追撃部隊に戦いを挑んだというのか。
(…分からん)
全く理解ができなかった。あの人間離れした武勇と、まるで子供のように純粋な義理人情。その二つが、呂布奉先という一人の男の中に、矛盾なく同居している。
(あれは、怪物だ…)
それも、ただ強いだけの怪物ではない。自らの定めた「義」という、決して揺らがぬ掟を持つ、規格外の怪物。そして、それ故に、最も御しがたく、最も危険な存在。
「面白い…そして…恐ろしい」
曹操は、誰に言うでもなく呟いた。
彼は、立ち上がり、西の空を見上げた。長安へ逃げた董卓。そして、北の并州へ帰るであろう、あの赤い怪物。
(呂布奉先…貴様は、いずれ必ず、我が覇道の前に立ちはだかるだろう)
助けられた。それは紛れもない事実だ。この曹孟徳の命は、あの男の、常人には理解しがたい「義」によって拾われた。この借りは、あまりにも大きい。そして、大きいからこそ、いつか返さねばならない。だが、その返し方は、一つではない。
(次に会う時、貴様が我が覇道に従うならば、この恩に十倍にして報いてやろう。だが、もし、我が道に立ち塞がるというのならば…その時は、この手で貴様の全てを奪い、命をもって借りを返してもらう。それこそが、この乱世における、俺なりの礼儀というものだ)
曹操の瞳に、焚き火の炎が映り込み、野心の色にぎらりと光った。
呂布という怪物の出現は、彼の胸に、生涯消えることのない強烈な棘となって、深く、深く突き刺さったのであった。




