第十ノ二話:飛将の孤独
第十ノ二話:飛将の孤独
黒沙の姿が、人波の中へと消えていく。その背中を、呂布は憎悪とも悔しさともつかぬ、複雑な表情で見送っていた。討ち損じた。あの手負いの獣を、ここで仕留め損なった。その事実は、彼の喉に刺さった小骨のように、不快な感覚を残した。
「深追いは危険だ、呂布殿!」
背後から、関羽の冷静な声が飛ぶ。見れば、李傕、郭汜らが率いる董卓軍の本隊が、分厚い壁となって眼前に立ちはだかっていた。その目は、復讐の色に燃えている。
「…退くぞ!」
呂布は、短く、しかし有無を言わせぬ威厳を込めて命じた。これ以上、この混沌の中で戦い続けるのは無意味だ。彼は赤兎の首を巡らせ、連合軍の陣地へと後退を開始した。関羽と張飛も、それに続く。三人の英雄が去っていくその背中に、董卓軍の兵士たちから罵声が浴びせられたが、もはや彼の耳には届いていなかった。
自陣に戻った呂布は、味方の喧騒を離れ、一人、黙って月明かりの下に立っていた。鎧には無数の傷跡が残り、激闘で酷使した体は鉛のように重い。だが、彼の心は、奇妙なほどに静かであった。戦場で感じた熱狂とは違う、どこか冷え冷えとした感情が渦巻いていた。
(これが、天下の戦か…)
彼は、己の武の限界ではない、己の戦い方の限界を、そして、この世には自分に匹敵しうる猛者たちが存在することを、改めて認識させられた。関羽、張飛の桁外れの武勇。黒沙の獣のような狡猾さと、信じがたい生命力。そして、董卓軍全体の組織力。
并州で最強と謳われ、天狗になっていた自分は、井の中の蛙に過ぎなかったのかもしれない。
(俺は、まだまだだ…親父殿の言う通り、力だけでは足りんのだ…もっと強くならねば…)
単なる武技の強さだけではない。状況を読む力、そして…仲間と力を合わせる強さ。そうだ、仲間と力を合わせる。虎牢関で初めて経験した、あの感覚。背中を預けるという、これまで知らなかった感覚。
彼が漠然と感じていた「物足りなさ」の正体が、はっきりと見えた気がした。それは、己の武に応えてくれる強敵への渇望だけではない。天翔けるが故の、誰にも追いつかせぬが故の、絶対的な孤独。その孤独を、埋めてくれる「仲間」への渇望だったのかもしれない。
その時、背後から静かな足音がした。振り返ると、陳宮がそこに立っていた。
「将軍、お体の傷は…」
「…この程度、どうということはない」呂布はぶっきらぼうに答えた。「それより、どうだ、陳宮。俺の戦いぶりは、貴様の目にどう映った」
陳宮は、呂布の問いには直接答えず、静かに言った。
「将軍の武は、まさしく天下無双。鬼神の如し。ですが…」彼は、言葉を選びながら続けた。「鬼神の力は、時に全てを焼き尽くす諸刃の剣ともなりましょう。今日の戦、もし関羽殿、張飛殿という予期せぬ助力がなければ、我らはどうなっていたか…」
その言葉は、呂布の痛いところを正確に突いていた。
「…分かっている」呂布は、苦々しげに吐き捨てた。「俺は、ただ己の武を誇示するように、敵の真っ只中で暴れていただけやもしれん。それでは、親父殿の言う、ただの獣と同じだ」
陳宮は、主君が自らの未熟さを素直に認めたことに安堵し、そして彼の持つ器の大きさを改めて感じていた。
「将軍は、獣などではございませぬ。ただ、その力が強大すぎるだけ。その力を、正しく導くのが、某のような軍師の役目。そして、その背中を守るのが、張遼殿のような将の務め。我らを、もっと頼っていただきたいのです。あなたは、もはや孤独な飛将ではないのですから」
呂布は、陳宮の言葉に、何も言い返せなかった。彼は、ただ黙って、傍らに立てかけてあった方天画戟を見つめた。この比類なき力は、何のためにあるのか。
(強くならねば…)
彼の脳裏に、遠く并州に残してきた三人の娘たちの顔が浮かんだ。あの絵を、彼は懐からそっと取り出し、月明かりにかざした。
(俺一人が強いだけでは駄目だ。この者たちを、俺を信じてくれる者たちを、そしてこの故郷を、丸ごと守り抜ける、真の強さがいるのだ…)
虎牢関の激闘は、若き呂布の心に、深い傷跡と敗北感に近い屈辱を刻み付けた。しかしそれは、同時に、彼が「個」の武人から、「仲間」を率いる将へと、大きく脱皮するための、最初の、そして最も重要な試練となったのであった。連合軍の先行きも、彼の未来も、未だ混沌とした乱世の闇の中にあったが、彼の内には、確かに、新たな光が灯り始めていた。




