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幕間:怪物の駒

幕間:怪物の駒

許都・丞相府。

外では蝉が鳴き、夏の気配が城下を覆っていた。

だが、この広間に漂う空気は、まるで氷のように冷たかった。

曹操は卓の上に広げられた一通の報告書を、薄く笑みを浮かべながら読み進めていた。

「……并州の双璧、恐るべき武勇。賊徒を一蹴す」

その一文に、彼の眉がわずかに動く。

「ふん、呂布の雛鳥どもも、牙だけは一人前か」

声は低く、嘲りを含んでいた。

だがその眼差しには、侮りと同時に鋭い光が潜んでいる。

曹操は決して、敵を過小評価する愚を犯さない男であった。

傍らに控える郭嘉は、静かに口を開いた。

「殿、その武勇こそ、まさに警戒すべき点にございます」

「ほう?」

曹操が視線を上げる。郭嘉の瞳には、熱ではなく冷徹な理が宿っていた。

「武とは、人の心を掴む最も分かりやすい力。洛陽に集う流民たちが、彼らを救世主と仰げば、いずれ鉄の結束が生まれましょう。それは一軍の強弱を超えた、『民そのもの』の力となります」

曹操は短く息を吐き、唇に笑みを浮かべた。

「なるほど。郭嘉、やはり貴様は面白い。……ならば、武で勝てぬなら、別のやり方で潰すまでよ」

卓の上に置かれた報告書の末尾。

そこに記された数行に、曹操の目が止まった。

「洛陽、深刻な食糧不足にあり。流民増え続け、人心に動揺あり」

その文を声に出すと、郭嘉の目が細く光った。

「殿、好機にございます」

郭嘉は一歩前に進み、地図を広げた。洛陽から并州へと伸びる補給路。

その線を指でなぞりながら、淡々と告げる。

「武では落ちぬ城も、内からならば容易く崩せます。飢えこそが、我らにとって最強の兵にございます」

曹操の笑みが深まる。

「申してみよ、郭嘉」

郭嘉は頷き、策を一つ一つ紡ぎ出した。

第一の矢――人心を裂く言葉。

「洛陽にさらに間者を送り込みます。『并州は我らを見捨てた』『食糧は特権階級に独占されている』――そう囁かせましょう。民の心にわずかな疑念が芽生えれば、それはたちまち大火となって広がる。飢えた腹は、理想や義に耳を貸しませぬ」

曹操は愉快そうに頷き、指で報告書を叩いた。

「うむ、呂布の若造どもは理想を掲げて民を救おうとするであろう。だが救えば救うほど、食糧は減る。そして民は、『なぜ我らの口に届かぬ』と騒ぎ出す。……面白い」

郭嘉は続けて、第二の矢を放った。

「并州からの補給路。この要衝に、元は我らの兵で構成した偽の賊を配置いたします。我らが直接手を下す必要はございません。裏で兵糧を与え、影にて操れば良い。表向きは、ただの賊の仕業と見せかけられます」

曹操は地図に目を落とし、指先で洛陽への線を消すようになぞった。

「補給は断たれ、内では流言が飛び交う。……ふははは! これで奴らの掲げる理想とやらは、己の重みに押し潰されるわ」

広間に響くその笑声は、凍りつくような冷気を帯びていた。

夜更け。

策を練り終えた二人は、盃を手にした。

郭嘉が酒を口に含み、冷ややかに言葉を落とす。

「飢えた民は、やて并州軍そのものに牙を剥きましょう。英雄が、救うべき民によって滅ぼされる……これほど滑稽な見世物はありますまい」

曹操は満足げに頷き、盃を傾ける。

「郭嘉よ、やはり貴様は我が鬼謀の器よ。洛陽の若造どもが、どれほど高邁な理想を語ろうとも――民の腹は、それを待ってはくれぬ。義に殉ずる? 笑止千万。己の旗で己を絞め殺すがよい」

その声は、もはや人ではなく怪物のものだった。

曹操は盃を置き、机上の地図に視線を落とす。

指で洛陽の文字を軽く押し潰し、虫けらを弄ぶかのように笑んだ。

「学ぶが良い、呂布の雛鳥ども。

国を創るとは、民を愛でることではない。

人の心の醜さを知り、それを御することなのだと――」

その瞳には、揺るぎない自信と、底知れぬ怪物の冷酷さだけが映っていた。

遠く洛陽で苦闘する若き英雄たちの姿など、彼にとっては盤上の駒に過ぎなかった。

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