第五十九ノ四話:官渡燃ゆ
第五十九ノ四話:官渡燃ゆ
幕舎の中は、異様な静けさに包まれていた。
卓上に広げられた地図の上を、燭火の揺らめきが歪んで走る。
曹操はその前に座し、鋭い眼差しで線をなぞっていた。
だが、その手は時折止まり、深い皺が眉間に刻まれる。
幕舎の隅には、許褚ら歴戦の将が並んでいたが、その顔には勝利の喜びではなく、疲労と不安が刻まれていた。
たしかに関羽が高覧を討ち、淳于瓊を退けたことで、袁紹軍の士気は大きく揺らいでいた。
「河北の双璧」が敗れた衝撃は計り知れず、袁紹の威信は明らかに揺らいだ。
しかし、それでも兵の数は依然として袁紹が圧倒的。
膠着は続き、時は曹操軍にとって無情に流れる。
兵糧は底を突きかけ、飢えが兵の士気を蝕んでいた。
「……もはや天運も尽きたか」
曹操は、かすかに唇を噛んだ。
声に出した瞬間、その言葉がどれほど致命的なものかを理解していた。
しかし、胸を圧する重苦しさは言葉となって漏れずにはいられなかった。
沈黙が流れる。誰も口を開こうとしない。
その頃、袁紹の陣営では正反対の光景が広がっていた。
豪奢な幕舎に、笑い声と酒の匂いが満ちていた。
双璧の痛手を、虚勢を張るかのように酒宴で塗り潰していたのである。
「曹操め、もはや風前の灯火よ!」
「今宵の酒は、勝利の美酒に他ならぬ!」
将たちは盃を掲げ、声を張り上げる。
その中央で、袁紹は得意げに微笑み、杯を傾けていた。
だが、その輪の外で、一人だけ重苦しい顔をしていた男がいた。
許攸――袁紹の臣下でありながら、度々その素行を責められ、いまや信頼を失いつつある謀臣である。
彼は杯を置き、袁紹の前に進み出る。
「殿、曹操軍は確かに窮地にございます。しかし油断こそ最大の敵。いまこそ兵糧を厳重に護り、勝利を確実なものとすべきかと」
その声には切迫した色があった。
しかし袁紹は不快げに眉をひそめ、鼻で笑った。
「許攸……おぬしはいつも口うるさい。勝ち戦の最中に縁起でもないことを言いおって」
側近の郭図や審配がすぐさま口を挟む。
「殿、許攸はその素行の悪さから兵に嫌われております。今宵もまた、無用の進言をして場を乱すつもりかと」
「まこと、忠誠心などあるものか。己の失点を隠すために騒いでおるのでしょう」
嘲笑が走った。袁紹もまた、冷ややかな目を許攸に向ける。
「おぬしのような裏表ある男、わしの軍に不要だ」
その言葉は、刃となって許攸の胸を貫いた。
彼は歯を食いしばり、低く唸る。
(……そうか。ならば、もう用はないというのだな)
怒りと屈辱、そして家族を守らねばならぬ焦りが、胸の奥で渦巻いていた。
やがて彼は盃を払い捨て、闇に紛れて陣を後にした。
――曹操の陣営。
夜更け、見張りの兵が慌てて駆け込んできた。
「報告! 袁紹陣より、一人の者がこちらに参っております。名を……許攸と申しております!」
幕舎の中に緊張が走った。曹操は身を乗り出す。
「……許攸だと?」
その名は、かつての旧友。だが同時に袁紹の重臣でもある。
「罠かもしれませぬ」
許褚が険しい目をした。
しかし荀彧が静かに進み出る。
「殿。許攸は強欲な男。しかし今の彼を動かすのは私怨でしょう。袁紹に疎まれれば、必ずこちらに来る。利用できる価値はございます」
曹操はしばし沈黙した。
そして次の瞬間、椅子を蹴って立ち上がる。
「……行く!」
履物を履く暇もなく、泥の大地を裸足で駆け出した。
幕舎を飛び出し、駆け寄ったその姿は、君主ではなく一人の必死な男だった。
「子遠! 子遠ではないか!」
そこに立つ許攸の姿を見た途端、曹操は膝を泥に沈めた。
雨に濡れたように泥まみれの顔で、必死に笑う。
「よくぞ来てくれた! この曹孟徳、もはやこれまでと思っていたところよ!」
許攸は一瞬、目を見開いた。驕慢にして冷徹な曹操が、ここまで必死の色を露わにするとは。その姿に、彼の心は大きく揺れた。
「……ならば、わしを受け入れるか?」
「無論だ! 今この時、おぬしほどの才をわしは欲している!」
許攸は、ついに決意した。低く告げる。
「袁紹軍の兵糧は、すべて烏巣にございます。その守将は淳于瓊。河北の双璧に数えられた猛将にございますが、先の戦で関羽に破られ重傷を負い、療養を兼ねてこの地に回されております。袁紹軍もその重要性を軽んじ、寡兵に任せているゆえ、守りは手薄にござる」
その言葉を聞いた瞬間、曹操の瞳に狂気の光が宿った。
絶望に沈んでいた眼差しが、怪物のように爛々と輝く。
「……天は、まだ我を見放してはおらぬ!」
声が震え、笑いが込み上げる。
「よいぞ! よいぞ許攸! 今宵こそ、わしが天下を掴む夜よ!」
そして夜闇を裂き、曹操は五千の兵を率いて走り出した。
月なき闇の中、風は冷たく、草の葉をざわめかせる。
兵たちは息を殺し、馬の蹄に布を巻き、音を消して進んだ。
やがて烏巣に至る。
そこでは淳于瓊が指揮を執っていた。
身は関羽の刃に深く斬られ、血気も衰えていたが、河北の双璧の名に恥じじと、わずかな兵を励ましながら必死に防備を固めていた。
しかし、兵は少なく、将も負傷していては抗しきれるはずもなかった。
闇から一斉に矢が飛来した。
「敵襲――!」
叫びも虚しく、曹操軍が雪崩れ込む。
炎が放たれ、乾いた薪のように兵糧は燃え上がった。
轟音と共に、巨大な火柱が夜空を焦がす。
「う、うわあああ!」
「兵糧が……兵糧が燃えるぞ!」
悲鳴が響き、烏巣の守兵は混乱に陥った。
その報せは、すぐに袁紹本陣へと届いた。
「報告! 烏巣が、烏巣が炎に包まれております!」
幕舎は一瞬にして騒然となる。
張郃が叫んだ。
「急ぎ救援を! 兵糧を失えば万事休す!」
だが郭図が遮った。
「殿! これは曹操の罠にございます! 兵糧を囮に、本陣を手薄にしておるのです!」
審配も続く。
「その通り! 烏巣は囮。本陣を攻めるべきです!」
袁紹は迷い、やがてプライドが正しい判断を打ち砕いた。
「……本陣を攻める! 曹操を討ち取るのだ!」
だが、その決断は致命的であった。
曹操本陣は落ちず、烏巣は完全に灰燼と化した。
兵糧を失った袁紹軍は、瞬く間に士気を喪失する。
命令は届かず、兵は武器を捨て、ただ雪崩のように逃げ惑った。
「退け! 退けぇぇ!」
誰もが己の命だけを頼りに、四散していった。
その崩壊の光景を、曹操は炎の向こうから静かに見据えていた。
頬に炎が照りつけ、瞳には冷徹な光が宿っていた。
「――これが、天命よ」
その呟きは、歓喜でも驕りでもない。
ただ、怪物が己の勝利を当然と受け止める声であった。
夜空を焦がす炎は、袁紹の驕りと野望を焼き尽くし、歴史の歯車を大きく回した。
こうして官渡の戦いは終わった。
崩壊したのは袁紹軍、そして勝者として立つのは曹操。
炎が夜を紅に染める中、歴史は静かに、新たな覇者の名を刻みつけた。




