第五十九ノ三話:玉、虎口を脱す
第五十九ノ三話:玉、虎口を脱す
官渡の戦は、なおも膠着を続けていた。
だがその空気を破ったのは、兵の数でも策の妙でもなく、一人の武の異才であった。
曹操の陣に身を寄せていた関羽が、高覧を討ち、淳于瓊を退けたとの報せ。
それはたちまち袁紹の本陣を震撼させた。
勝勢を誇っていた「河北の双璧」が破られた事実は、兵を失った以上の衝撃を与えたのである。
鄴の城、軍議の間。
燃えさかる松明の明かりが、武将たちの顔を紅く照らし出していた。
「……なぜだ!」
袁紹は玉座を叩き、鬚を震わせて立ち上がる。
その顔には勝者の余裕など欠片もなく、ただ動揺と怒りのみが滲んでいた。
「高覧も淳于瓊も、我が誇る将であったはず! それをこうもたやすく……あの関羽という男、まるで鬼神の如きではないか!」
怒号の末、ふとその目が狭まる。
「すべて……すべては、あの劉備を迎え入れたせいだ!」
場が、ざわめいた。
「劉備は義弟を曹操に差し出し、我が軍を乱したのだ! あやつは疫病神よ!」
郭図が進み出、深々と頭を垂れる。
「殿の仰る通り。劉備をこのまま養えば、ますます禍根となりましょう。今こそ処断し、将兵の心を正すべきです」
その声は鋭く、袁紹の心に潜む猜疑心を煽るものだった。
だが沮授が静かに立ち上がる。
「お待ちを。劉備殿は漢室の宗親にして、仁徳をもって広く世に知られております。もし我らがその命を奪えば、『袁紹は義士を殺す』と天下に喧伝されましょう。曹操こそ、その好機を逃しませぬ」
「ぐぬぬ……」
袁紹の顔が揺らぐ。
郭図は畳みかける。
「殿、世は強者の理に従う時代。仁徳など、兵糧にも兵にもなりませぬ。覇者は余計な情を捨てねばなりませんぞ」
袁紹の瞳は、再び欲望の炎に揺れ動いた。
その頃、別室。
劉備は静かに座し、腹心の孫乾の声を聞いていた。
「玄徳殿……郭図が処断を強く進めております。沮授殿は必死に諫めておりますが、このままでは……」
孫乾は唇を噛み、震える声を絞り出す。
「今宵のうちに脱出を……!」
だが劉備は首を振った。
「いや」
その声音は驚くほど落ち着いていた。
「虎の口に入った以上、逃げれば牙に噛み砕かれるのみ。だが……虎は欲深く、耳も甘い。そこを衝けば、道は必ず開ける」
義弟・関羽の雄姿が脳裏に浮かぶ。
(雲長よ。そなたの刃は私を危地に立たせた。だが同じく、その刃が私に策を振るう機会を与えてくれたのだ)
劉備は静かに立ち上がった。
「参ろう。袁本初の前へ」
軍議の間に劉備が現れると、ざわめきが走った。
彼は深々と頭を下げ、声を張る。
「某の義弟・関羽が、殿の軍を乱しました。兄として、万死に値いたします!」
その悲壮な声に、袁紹の表情がわずかに和らぐ。
「されど……このまま座して死を待つことは、到底本意ではございませぬ。せめて最後に、殿のお役に立ちたく存じます」
「役に立つ、だと?」
劉備は顔を上げた。その瞳には揺るぎなき光が宿っている。
「荊州の劉表は、漢室の同族にして袁家とも旧知。もしこの劉備が赴き説き伏せることができれば……劉表は必ずや殿の味方となり、曹操の背後を脅かしましょう」
場の空気が大きく揺れた。袁紹の胸に、南方への野望が炎のように燃え上がる。
沮授が慌てて進み出る。
「お待ちを! 罠やもしれませぬ!」
だが郭図が遮る。
「大軍を与えるのではなく、僅かな兵を授ければよい。成功すれば儲けもの、失敗しても惜しくはありますまい」
「うむ……それがよい!」
袁紹は大きく頷いた。
「劉備! 汝に千ばかりの兵を与える。直ちに荊州へ赴き、劉表を我が陣営に引き入れよ!」
「ははっ……身命を賭して、必ずや成し遂げてみせましょう」
その声は忠義の将のもの。だが心の奥では、鋼の決意が燃えていた。
(虎よ。貴様の欲の深さこそ、我が脱出の門よ……!)
数日後。
劉備はわずかな供回りとともに袁紹の陣を離れた。
河北の平野を南へ進み、ふと馬を止める。
冷たい風が荒野を吹き抜けた。
「……すまぬ、雲長、翼徳」
天を仰ぎ、拳を固める。
「だが、桃園の誓い、果たさずには死ねぬ! 必ずや再会しようぞ!」
彼の脳裏に、今は袂を分かっているもう一人の好敵手の姿が浮かぶ。
(そして……呂布よ。貴様もまた、己が義のために戦っておろう。この劉玄徳、このままでは終わらぬ。再び盤上で相見える日まで、互いにこの乱世、生き抜こうぞ!)
敗残の将の姿であっても、その瞳には兄弟との再会を果たし、天下の英雄たちと再び覇を競う未来を切り開く、不屈の光が宿っていた。
その頃、許都。
孫乾が手配した密使がもたらした文を、関羽は静かに読み終えた。
「……兄者、河北を脱したか」
安堵の息を一つ吐くと、彼はやおら立ち上がる。曹操から賜った数多の金銀財宝や美女には目もくれず、ただ壁に掛けてあった錦の戦袍を手に取った。それは曹操の恩義の証。彼はその戦袍を丁寧に畳み、文を添えて卓上に置く。
そして、己が身に着けていた、兄から授かった緑の戦袍の襟を正した。
愛馬・青虎の首筋を撫でながら、静かに告げる。
「待たせたな、兄者。今、参る」
その瞳には、曹操への恩義への感謝と、それを上回る劉備への忠義が、鋼の決意となって燃えていた。
こうして玉は虎口を脱した。
そして義を重んずる武神は、再び桃園の誓いのもとへ集わんとしていた。
乱世の盤上に、新たな一手が打たれたのである。




