第五十九話:金色の檻、義の在り処
第五十九話:金色の檻、義の在り処
冬の許都は、凍てつく静けさに包まれていた。
丞相府の一角、関羽にあてがわれた屋敷は、金と朱で彩られた壮麗な造りであった。
磨き上げられた柱には龍が絡み、天井からは玉の灯が垂れ下がり、夜ともなれば燦然たる輝きが広間を照らす。
床には絹織物の敷物が重ねられ、壁際には南海より運ばれた香木が焚かれ、常に甘い香りが漂っていた。
この屋敷は、まさに檻であった。
外見は絢爛豪華でありながら、そこに住まう者を外界から切り離し、籠の鳥のように閉じ込める檻。
しかもそれは鉄ではなく金で出来ているがゆえに、なお逃れがたく、なお人の心を惑わす。
関羽は、その金色の檻の中心にいた。
彼は奥の間の扉の前に座し、厚手の外套の上から直垂を正しく着込み、静かに『春秋左氏伝』を開いている。
背筋は微塵も崩れず、ただ頁をめくる指先のみが、刻の流れを示していた。
その背後には、兄・劉備の二人の夫人が身を寄せており、彼は一刻たりともその警護を怠らなかった。
廊下を行き交う下女たちは、金銀の器や珍味を盆に載せ、時に舞の心得ある美姫を伴って現れた。
曹操の意を受け、彼らは関羽を楽しませようと尽力したのである。
しかし関羽は、視線を落としたまま、頁から目を離すことはなかった。
美姫が琴を奏でようと、香炉から立つ煙が妖しく揺らめこうと、彼の心には一片の動きも生じぬ。
それは石像の如き姿であった。
ただ、耳の奥に常にあるのは、劉備の声であり、張飛の笑いであり、そして奥に控える二人の夫人の安らかな息遣いである。
彼にとって守るべきものはただそれだけであり、その他のすべては色あせた幻影に過ぎなかった。
その日、曹操が姿を現した。
彼はいま、官渡において袁紹の大軍と対峙している。
だが戦はなお睨み合いの最中にあり、兵站や政務を整えるため、一時都へ帰還していた。
そしてその合間に、どうしても関羽のもとを訪れずにはいられなかったのである。
濃紺の衣をまとい、傍らに近侍を控えさせず、あえて一人で歩み入ってきた。
彼の眼差しは鋭く、しかしその奥底に、関羽という男をどうにかして振り向かせたいという焦燥が隠れていた。
「雲長よ」
曹操の声は、場を和ませるように柔らかであった。
「いつまでその書物と睨み合っておる。宴を設けよう、共に盃を交わし語らろうではないか」
関羽は頁から目を上げ、深く一礼して答えた。
「御厚意、痛み入りまする。しかしながら、この身には務めがございます。夫人の御安泰を守ること、これに優る務めはございませぬゆえ」
声は静かでありながら、刀の刃のように揺るぎがなかった。
曹操は微かに口元を歪めた。
「……相変わらずよの」
その言葉の裏には、苛立ちと同時に、得も言われぬ感嘆が入り混じっていた。
彼は多くの英雄を見てきた。
金を見れば笑みを浮かべ、女を見れば顔を赤らめ、地位を示せば膝を折る者たち。
だがこの関羽という男には、いかなる誘惑も通じぬ。
心はただ一人の兄に結びつけられ、金色の檻の中にありながら、自由そのもののように揺らがぬ。
曹操はしばし沈黙し、その背に背負う大きな影を見つめた。
関羽はすでに、英雄ではなく「義」の化身となっていた。
数日後、冬の陽が淡く差し込む午後。
関羽が書を読む屋敷の前庭に、蹄の音が近づいた。
音は重く、しかし驚くほどに整っていた。
門が開くと、そこには曹操自らが立っていた。
手には手綱が握られており、その先には一頭の馬がいた。
その馬は、漆黒に近い青みがかった毛並みを持ち、陽光を浴びるたびに青鉄のような光を放つ。
四肢は太く、蹄は大地を抉るかのように力強い。
眼光は虎を思わせる鋭さで、見る者を圧倒する威を帯びていた。
「青虎」と呼ばれる名馬である。
曹操が数多の戦場を共にした愛馬にして、彼が最も手放すことを惜しむ宝であった。
「雲長よ」
曹操は誇らしげに声を掛けた。
「英雄には、英雄にふさわしき駿馬がいる。この青虎、我が最愛の馬を、お主に贈ろうと思う」
その言葉に、関羽の眉がわずかに動いた。
これまで美姫が舞おうと、黄金が積まれようと、石のように揺らがなかった男が、初めて表情を変えたのだ。
彼はゆっくりと立ち上がり、馬へと歩み寄る。
青虎はその巨躯を揺らし、鼻息を荒くしたが、関羽が伸ばした手を拒むことはなかった。
むしろその掌を受け入れるように鼻を寄せ、黒曜石の瞳を細めた。
関羽の眼差しは、深い喜びに満ちていた。
その瞳は、久しく凍り付いていた湖面に春の陽が差し込んだかのように、温かく輝いていた。
彼は深々と頭を垂れ、曹操に礼を述べた。
「このような馬を賜るとは……関羽、生涯でこれほどの喜びはございませぬ」
その姿に、曹操の胸は熱く高鳴った。
ついに、この男の心を掴んだ――曹操はそう確信しかけた。
だが、次の瞬間。
関羽の口から紡がれた言葉は、その確信を打ち砕くものであった。
「この馬あれば……兄者の居場所が判明し次第、一日千里を駆け、必ずや馳せ参ずることが叶いまする。それこそ、わが望みでございます」
曹操の顔から、歓喜が音もなく消え去った。
代わりに浮かんだのは驚愕、そして深い感嘆と、どうしようもない諦観であった。
「……そうか」
曹操は呟いた。
「やはり、お主の心は玄徳にあるか。見事な男よ、雲長」
その声音には、敗北を認めた者の苦笑が混じっていた。
その夜。
関羽は青虎の馬小屋を訪れ、丁寧に毛並みを梳いた。
馬は穏やかに鼻を鳴らし、すでに彼を主と認めているかのようであった。
屋敷に戻ると、関羽は静かに座し、青龍偃月刀を膝に置く。
布で刃を磨きながら、彼は低く、しかし確かな声で言った。
「曹操公より賜ったご恩、関羽決して忘れませぬ。いずれ必ず、この身をもって報いましょう。その後こそ、兄者の元へ戻る道」
刀身に映る己の瞳は、揺るぎなき忠義の光を宿していた。
窓の外では、冬の風が金色の檻を撫でていた。
だがその中に座す関羽の心は、すでに檻を超え、兄のもとへと馳せていた。
彼はただ、その時を待つ。
静かに、確かに。




