幕間:江東の雌伏
幕間:江東の雌伏
静まり返った私室には、まだ兄の気配が濃く残っていた。
壁に掛けられた武具、卓上に置かれたままの文書、酒器から立ち上るほのかな香り――。
そのすべてが、つい先日までこの場に満ちていた、嵐のような覇気を思い出させる。
孫権は、兄の形見である古錠刀を手にしていた。
刀身に走る、水面のような波紋を見つめながら、思わず呟く。
「兄上ならば、どうされただろうか……」
その声は掠れ、途中で途切れた。
兄・孫策は、誰よりも勇敢で、誰よりも豪放だった。疾風のごとく戦場を駆け抜け、江東を平定し、覇業への道を拓いた。
その燃えるような姿を間近で見てきた弟にとって、兄は憧れであり、決して超えられぬ壁のような存在でもあった。
だが今、その兄はもういない。
残されたのは、まだ若く未熟な自分。
そして数万の兵と数百万の民を、その双肩に背負わねばならぬ現実だった。
刀を握る手が微かに震える。
自分にその器量があるのか――耐え難いほどの不安が、胸を締めつけた。
「……俺では、兄上の代わりなど……」
その時、背後で扉が静かに開いた。
「仲謀」
名を呼んだのは周瑜だった。白衣を纏い、その姿は凛としている。だが眼差しには、無二の友を失った深い悲しみが潜んでいた。
悟られまいと、彼は冷徹な知将の仮面で覆っていたが。
孫権は慌てて刀を置き、立ち上がろうとする。
だが周瑜は手で制した。
「よい。そのままに」
彼は歩み寄り、卓に残された酒器へ一瞥する。
「伯符も、お主がいつまでも沈んでいては浮かばれまい」
その声音は優しく、友としての慰めであった。
しかし、次の瞬間――周瑜は杯を置き、声色を改めた。
「――しかし殿。情はさておき、現実は冷酷にございます」
友から臣下へ。言葉も姿勢も、一転して厳粛さを帯びる。
彼は孫権を執務室へ導いた。そこには壁一面に広がる巨大な地図。河川の流れ、山岳の稜線、要衝の城郭――中原の情勢を一望できるものだった。
周瑜は指で一点を示す。
「官渡にて、曹操と袁紹が膠着しております。両者ともに疲弊は必至。これほどの好機はございません」
孫権が息を呑む。
「ならば……我らも軍を興し、中原へ――」
即座に、周瑜は首を横に振った。
「なりませぬ」
その一言は鋭く、孫権は思わず目を見開いた。
「今の我らは、まだ傷ついた仔虎に過ぎませぬ。中原の嵐に飛び込めば、ひとたまりもありますまい」
周瑜は地図の南、江東を指す。
「ここをご覧ください。割拠する豪族はなお多く、民心も完全に我らに帰してはおりませぬ。力を誇示する前に、この地を鉄壁とせねばならぬのです」
孫権は唇を噛んだ。それが痛いほど理解できるが、同時に己の無力さを突きつけられる思いがあった。
周瑜はさらに声を低めた。
「もう一つ、気掛かりがございます。北の飛将・呂布――洛陽に兵を置いた、との噂が広まっております」
孫権の眉が寄る。
「洛陽だと……? あの荒れ果てた都に、わざわざ……」
周瑜は頷く。
「真偽は不明。誰が流したかも知れませぬ。ですが殿、呂布は常人の理で測れぬ男。裏切りを企むのではなく、鬼神のごとく戦場に現れてはすべてを呑み尽くす……流言であろうと軽んじてはなりませぬ」
孫権の胸に、父・孫堅の言葉が蘇る。
――あれは天災だ。
不気味な影が、江東の若き主の胸を覆った。
長い沈黙ののち、周瑜は孫権の方へ向き直る。
そして――友ではなく臣として、ひざまずき深く頭を垂れた。
「我が主君、仲謀様。虎と狼が争い、鬼神が跋扈する今……我らが為すべきことはただ一つ」
「この江東を誰にも侵されぬ鉄壁の国となし、来るべきその時のために静かに牙を研ぐこと。これこそ、亡き伯符の遺志に報いる道にございます」
孫権の胸を熱いものが突き上げた。
彼は目を閉じ、深く息を吸う。
――俺は兄上にはなれぬ。
――だが、俺には俺の道がある。
瞼を開いたとき、その瞳にはもはや迷いはなかった。
「分かった、公瑾」
静かに、しかし確固たる声で言い放つ。
「俺は兄上にはなれぬ。だが、俺のやり方で、この江東を守る」
彼は地図の江東を指差した。
「まずは、この地を固めるぞ」
その言葉は、若き主が初めて下した真の決断だった。
周瑜は深く頭を垂れ、その声を受け止める。
孫権は兄の影から脱し、自らの足で立った。
――江東の虎は、まだ牙を隠したまま。
だが、その瞳には確かに、新たな時代を切り拓く光が宿っていた。




