第五十七話:洛陽という名の試練
第五十七話:洛陽という名の試練
朝の光が、秋の乾いた風に揺れる障子越しに差し込んでいた。并州の都・晋陽の空は澄み渡り、旅立ちの日を告げるかのように凛としている。
馬超と華の婚礼から、まだ幾日も経っていない。だが今日は、早くも西涼へ向けて二人が出立する朝であった。その門出を見送るため、飛将・呂布の私室には特別な面々が集っていた。
若き参謀・徐庶と暁。
白龍・趙雲と飛燕。
新婚の若獅子・馬超と華。
そして宿将・猛将・張遼と高順。
顔を揃えたのは、いずれも并州の未来を背負う者たちばかり。并州本国の守りと差配を担う軍師・陳宮は、あえてこの場にはいない。ここにいるのは、これから中原という嵐の中心へと向かう者たちだけであった。表向きは旅立ちの見送りではあったが、呼ばれた顔ぶれの重さに、若者たちは胸の奥に微かな緊張を覚えていた。
室内の空気は、別れを惜む、穏やかで少しだけ寂しいものだった。
華が、姉の飛燕の手を固く握りしめている。
「姉様……どうかお元気で。洛陽でのご武運を、西涼の地よりお祈りしております」
「あんたこそ。馬超殿にばかり頼らず、自分の身は自分で守るのよ。……何かあったら、すぐに知らせなさい。この私が、駆けつけてあげるから」
強がりながらも、その声には妹を案じる深い愛情が滲んでいた。
笑顔と寂しさとが入り混じる、柔らかなやり取り。
だがその中心で、飛将・呂布は黙して皆を見渡していた。その眼差しには、父としての温かさと同時に、君主としての厳しい光が宿っている。
やがて呂布が口を開いた。
「…お前たちに問いたい。俺が先日、国境で袁紹軍の敗残兵を民として受け入れたことを、どう思う」
不意の問いに、場の空気が揺らぐ。
徐庶が眉を上げた。
「殿の御心は…?」
「俺は、あの時、并州だけでは全ての民を救えぬと痛感した。この楽土は、盤石だと思うか。外に虎と狼が牙を剥く今、この地は安泰かと問うておる」
しばしの沈黙ののち、徐庶が静かに答えた。
「殿の御政は着実に実を結んでおります。ですが、今の并州は満たされた杯。これ以上、新たな水を受け入れる余裕はございません。外の嵐が強まれば、いずれ杯は砕けましょう」
趙雲もまた頷く。
「はい。今の并州に敵はおりませぬ。ですが、それは敵がまだ我らを真の脅威と見なしていないからに過ぎませぬ」
その的確な答えに、呂布は深く頷いた。
「そうだ。并州だけでは、脆い」
低く響く声に、誰もが息を呑む。
「官渡の戦いは、いずれ決する。虎が勝とうと、狼が勝とうと、次に狙われるは我らだ。その時、并州という『盾』だけで、この国を守り切れるか? 否!」
その言葉と共に、呂布は立ち上がった。
壁に掛けられた巨大な地図の前へと進み、指先で一つの地名を示す。
「必要なのは、奴らの心臓を常に脅かす『刃』。…洛陽だ」
その一言で、場の空気は一変した。
かつて董卓に焼かれ、今は荒れ果てた死地。誰もが再生など夢物語と見捨てた土地である。
徐庶は、かつて軍師・陳宮と共に交わした議論を思い出し、息を呑んだ。
(ついに、この時が来たか…!)
「……洛陽に、大将軍府を……?」
「そうだ」呂布は力強く頷いた。
「洛陽は中原の要。あそこに拠れば、虎も狼も常に背を震わせる。并州を守るだけの国など脆い。だが洛陽を抑えた国は、逆に中原を揺さぶることができる。…官渡の行く末に関わらず、我らは未来を掴める」
誰もが息を呑んだ。
その発想は、まさに怪物・曹操すら想いもよらぬ道であった。
呂布の眼光がさらに鋭さを増す。
「だが洛陽は、董卓の炎に焼かれ、未だ瓦礫の街。賊徒が巣くう死地だ。そこに新たな楽土を築くことは、并州を治めるより遥かに困難。…これほどの試練はない」
重く静かな言葉が落ちた。
そして、彼は振り返り、若者たちを真っ直ぐ見据えた。
「この最も困難で、最も名誉ある役目を…お前たちに託したいと思う」
ざわり、と空気が揺れる。
暁と飛燕が小さく息を呑み、互いの目を見交わす。
徐庶と趙雲も妻の表情を窺いながら、言葉を失った。
沈黙を破ったのは、猛将・張遼だった。
「殿。この命、喜んでお受けいたします。我らは若き者らを支え、その務めを必ず果たしてみせましょう」
続いて宿将・高順も膝をつく。
「はい。我らの槍は、若君たちの盾。必ずや洛陽を築き上げましょう」
その姿に、馬超が拳を握りしめた。
「義父上…! その志、しかと西涼の父へ伝えます。西の地は我らに任せよ!」
若き獅子の声が、重苦しい空気を破った。
暁が静かに夫の隣へ進み出た。
「父上…どうかお任せください。どれほど困難であろうとも、元直様と共に洛陽の礎を築きます」
飛燕もまた、迷いを振り払うように一歩を踏み出す。
「私も参ります。子龍様と共に、この并州の未来を…洛陽に託します!」
声は震えていた。だが、その瞳は確かな光を宿していた。
徐庶と趙雲もまた、妻のその言葉に応えるように頷く。
「殿、お言葉、謹んでお受けいたします」
「この命、洛陽のために捧げます!」
若き英雄たちが次々と覚悟を示す光景を、呂布は静かに見つめていた。
その胸には、父としての誇りと、君主としての覚悟、そしてわずかな寂しさが入り混じっていた。
やがて彼は深く頷く。
「よくぞ申した。…洛陽は試練だ。だがその試練を越えた先にこそ、真の楽土がある。お前たちならば必ず成し遂げると、俺は信じている」
(俺はかつて、己が槍一本で全てを守れると信じ、そして、爺を死なせた。一本の槍は、どれほど強くとも折れることがある。だが……)
彼の脳裏に、并州を支える若き英雄たちと、それを束ねる忠臣たちの顔が浮かぶ。
(大地が支え、閃光が道を拓き、楔が絆を繋ぐ。これだけの力が合わされば、もはや折れることはあるまい)
雛鳥は、いつか必ず巣立っていかねばならぬ。
并州の新たな時代の幕が、今まさに開かれようとしていた。




