第十話:獣の咆哮、そして傷痕
第十話:獣の咆哮、そして傷痕
「終わりだ、獣」
呂布の冷徹な声が、戦場の喧騒の中で、ひときわ大きく響き渡った。
それは、獲物への最後の宣告。陽動の役目を終え、再び戦いの主導権を握った彼の瞳には、もはや焦りも、屈辱の色もない。ただ、絶対的な強者が放つ、氷のような静謐だけが宿っていた。
その声に応えるかのように、関羽と張飛もまた、最後の力を振り絞り、その得物に魂を込める。
空気が、凍った。
時が、止まったかのような錯覚。
最初に動いたのは、天。
呂布の方天画戟が、雲を突き破り落ちてくる雷光のように、黒沙の脳天めがけて振り下ろされる。それは、ただの力任せの一撃ではない。三人の英雄の連携が生み出した、僅かな、しかし決定的な隙を突いた、完璧な一撃であった。
次に動いたのは、地。
関羽の青龍偃月刀が、大地を薙ぐ巨大な顎のように、無防備な胴体を狙って横一閃に走る。その軌道は、呂布の攻撃を避けた先に、寸分の狂いもなく描かれていた。
最後に動いたのは、人智の及ばぬ混沌。
張飛の蛇矛が、予測不能な角度から、心臓を抉らんと黒い毒蛇のように突き込まれる。それは、関羽の一撃を警戒するであろう黒沙の、意識の死角を狙った、野性の勘が生み出した神業であった。
天と地、そして人が織りなす、三位一体の必殺の連携。それは、もはや人が避けることのできぬ、絶対的な死の包囲網。
「ぐ…おおおおおおおおっ!」
黒沙は、絶体絶命の窮地で、人ならざる獣の咆哮を上げた。彼は、防御という理性を捨てた。その代わりに、残された全ての生命力を、ただ一点、右腕に握られた鉄蒺藜骨朶に注ぎ込んだ。その瞳が映すのは、眼前の呂布ただ一人。全てを道連れにする、相討ち覚悟の、最後の牙であった。
ゴォンッ!
鼓膜を破るかのような、凄まじい衝撃音が戦場を支配した。
呂布の方天画戟と黒沙の鉄蒺藜骨朶が激突し、ありえないほどの火花を散らす。呂布の渾身の一撃は、黒沙の捨て身の反撃によって僅かに軌道を逸らされ、兜を砕き、額を浅く切り裂くにとどまった。
だが、それこそが、命取りであった。
鉄棍が呂布の戟と噛み合った、ほんの刹那。
ザシュッ!
関羽の青龍偃月刀が、分厚い獣皮の鎧ごと、黒沙の脇腹を肋骨まで断ち切った。
グサリ!
張飛の蛇矛が、抵抗する筋肉を突き破り、その肩を容赦なく貫いていた。
「ぐ、おぉ…あああああっ…!」
鮮血が、まるで噴水のように吹き上がった。
黒沙の巨体が、まるで巨木が雷に打たれたかのように、大きくのけぞる。その禍々しい刺青に覆われた顔から、血の気が引き、初めて純粋な驚愕と、理解を超えた苦痛の色が浮かんだ。
致命傷。誰もが、そう確信した。
だが、黒沙は倒れない。彼は獣のような咆哮を上げると、貫かれた肩から蛇矛を自ら引き抜くと、傷口を手で押さえ、信じられないほどの生命力で後方へと飛び退いた。脇腹からは、おびただしい量の血と共に、臓腑の一部が覗いている。
「小僧どもめ…! この傷、この痛み…! 必ず、貴様らの命で償わせてやるぞ…!」
憎悪に満ちた瞳で三人を睨みつける黒沙。その姿は、もはや武人ではない。深手を負い、それでもなお牙を剥く、手負いの獣そのものだった。
「逃がすか」
呂布が、追撃の戟を構えた。その瞳は、とどめを刺すことへの、冷たい決意に満ちていた。
しかし、その一歩を踏み出すより早く、戦場の空気が一変した。
「退けぇい! 呂布を討ち取れ! 黒沙様をお守りしろ!」
董卓軍の本隊が、戦況の変化を察知し、鬨の声を上げて雪崩れ込んできたのだ。李傕、郭汜らが率いる数千の兵が、呂布たちと黒沙の間に、分厚い槍の壁を作る。
「ちぃっ!」
呂布は舌打ちし、後退を余儀なくされる。その混乱の中、黒沙は部下に担がれるようにして、人波の中へと姿を消していった。
勝利の雄叫びを上げる連合軍。だが、呂布、関羽、張飛の三人は、言葉もなく視線を交わし、その顔には満足感よりも、強敵を討ち損じたことへの、かすかな悔しさが滲んでいた。
この戦いは、彼らの心に、生涯消えることのない深い印象と、そして「黒沙」という共通の因縁を刻み付けたのであった。




