第五十六ノ二話:静観の先に見るもの
第五十六ノ二話:静観の先に見るもの
并州が「静観」を大方針と定めてから、季節が一つ巡ろうとしていた。
官渡の地で続く二大勢力の睨み合いは、北の并州に奇妙なほどの平穏をもたらしていた。だが、その水面下で巨大な何かが動き出そうとしている予感を、誰もが肌で感じていた。
その夜、呂布の私室には、彼が最も信頼を置く二人の知恵者が招かれていた。
筆頭軍師・陳宮と、若き参-謀・徐庶。
部屋には上質な酒の香りが静かに満ち、卓上に置かれた杯が灯火の光を反射して琥珀色に揺れている。だが、二人の軍師は、その杯に手を伸ばそうとはしなかった。
主君が国境の視察から戻って以来、その瞳の奥に以前とは違う、新たな炎が宿っていることに、彼らは気づいていた。なぜ、この静かな夜にこうして二人だけが呼ばれたのか。その真意を測りかね、彼らは緊張した面持ちで主君の言葉を待っていた。
やて、呂布は自らの杯を満たすと、静かに口を開いた。
「…我が并州は、強くなったと思うか」
その問いは、あまりにも漠然としていたが、陳宮と徐庶はそれが極めて重要な問いであることを瞬時に理解した。
徐庶が進み出て、深く一礼する。
「はっ。民は豊かになり、兵は精強。そして何より、義弟となった馬超殿や趙雲殿、新たな将兵が集われた今、その力はかつてないほどに高まっております」
「うむ。だが…」
陳宮が、鋭い視線で呂布を見据えた。
「…殿のお顔は、それに満足しておられるお顔ではない。国境で、何かをご覧になられましたな」
その、全てを見通すかのような言葉に、呂布はふっと笑みを漏らした。
「…さすがだな、公台」
彼は、壁に掛けられた巨大な中原の地図の前へと、静かに歩み寄った。
「公台よ、いや…軍師・陳宮。覚えておるか。数年前、許都から戻った時、お前が言った言葉を」
呂布は、地図の一点をその武骨な指で示した。
董卓によって焼き払われ、今はまだ荒廃したままの旧都、「洛陽」。
「この地は、我らが中原に打ち込む、いつの日にかの『楔』となると」
その言葉に、陳宮は静かに、しかし深く頷いた。
「…忘れるはずがございません。ですが、あの頃はまだ、その楔を打ち込むだけの槌が、我らにはございませんでした」
「そうだ」
呂布は、振り返った。その瞳が、燃え上がっていた。
「だが、今は違う」
彼の視線が、二人の軍師を射抜く。
「礎となる徐庶が来た。絆となる馬超が来た。そして、刃となる趙雲が来た。俺の娘たちは、その者たちと共に立つ覚悟を決めた。…そうだ、陳宮。お前が言った通りだ。槌は、今まさに、鍛え上げられたのだ!」
その宣言に、徐庶は息を呑んだ。
(なんと…! 殿は、この数年の全ての出会いを、この一つの壮大な布石のために結びつけておられたというのか!)
若き参謀は、自らが仕える主君の、その計り知れないほどの深謀遠慮に、ただ圧倒されるしかなかった。
陳宮もまた、深い感慨と共にその言葉を聞いていた。
(ああ…)
彼の脳裏に、かつて酸棗で初めて出会った頃の、あの不器用でただ真っ直ぐなだけの若者の姿が浮かぶ。
あの頃の殿は、磨かれていない、ただ強大なだけの力だった。それを自分が鞘となり導いてきたつもりでいた。だが、いつの間にか、その至宝は自らの力で輝きを放ち、今やこの自分をすら導くほどの巨大な光となっている。
(まるで、我が子の成長を見るようだ…)
軍師としての喜びと、そして、息子を見守る父親のような、どうしようもない誇らしさが彼の胸を熱く満たしていた。
「時は、満ちた」
呂布の声が、部屋の空気を震わせた。
「俺たちの『静観』は、ただ嵐が過ぎ去るのを待つことではない。虎と狼が喰らい合う間に、我らはこの楔を、中原の心臓部へと深く、深く打ち込む! それこそが、静観の先に俺が見た、次なる一手だ!」
守るための、刃。
攻めるための、静観。
その、あまりにも壮大で、あまりにも攻撃的な構想の、ついに訪れた実行の刻。
二人の軍師はもはや言葉を失っていた。
彼らはその場で静かに膝をつくと、自らが仕える主君の、その揺るぎない決断と信頼に、心からの敬意を表して、深く、深く頭を垂れた。
三人の意志が、完全に一つになった瞬間であった。
并州の未来の針路は、今、この静かな夜の部屋で、確かに、そして力強く、定められたのだ。




