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幕間:玉座の祈り

幕間:玉座の祈り

許都の夜は、深い。

だが、その静寂は安らかな眠りから来るものではなかった。北へ向かった大軍の喧騒の残滓と、後に残された者たちの声なき不安が、冷たい霧のように都を支配していた。


その霧が最も濃く立ち込める場所――皇宮の奥深く。

若き天子、劉協――漢王朝第十四代皇帝、献帝は、一人、自らの私室でその息苦しいまでの静寂に耐えていた。

部屋は天子のそれにふさわしく、金銀の飾り、異国の絨毯、玉で作られた調度品が並び、焚かれた香が甘く立ち込めている。だが、その全てが彼の孤独を際立たせるための、精巧で冷たい舞台装置にしか見えなかった。


(朕は、鳥籠の中の鳥…)


昼間の朝議の光景が、まぶたの裏に蘇る。

曹操が差し出す上奏書に、ただ頷くだけ。その内容を吟味することも、異を唱えることも許されない。ただ、美しい衣装を纏い、玉座という名の止まり木の上で、完璧な傀儡を演じること。それが、彼に与えられた役目であった。

数ヶ月前、意を決して国舅・董承に託した血の密勅「衣帯詔」。だが、官渡で曹操と袁紹が睨み合っている今、董承も動けずにいる。あの、魂を削るような決断も、このまま虚しく闇に葬られてしまうのか。

絶望が、冷たい水のように彼の心をゆっくりと満たしていく。


その時――扉が音もなく、三度だけ軽く叩かれた。

合図だ。

「…入れ」

入ってきたのは、国舅・董承。その顔には深い憂いと、隠しきれない焦燥の色が浮かんでいた。


「陛下。夜分に恐れ入ります」

董承は、深く膝をついた。

「構わぬ。…して、戦況はどうなっておる」

献帝の声は、年相応の若者のそれではなく、感情を殺しきった老人のようにか細く、そして乾いていた。


「はっ。官渡の戦いは依然、膠着状態にございます。曹操も袁紹も互いに決め手を欠き、動けずにいる模様。我らにとっても、今はただ耐える時かと…」

「…そうか」

献帝の口元に、かすかな苦笑が浮かんだ。


董承は言葉を継ぐ前に一瞬ためらった。だが、やがて決意したように声を低める。

「不可解なのは、北の呂布にございます。この天下分け目の好機にどちらにも与せず、『静観』を決め込んでいるとか。間者の報告によれば、国境の守りを固めるばかりで、一歩も動く気配がない、と」

その報告に、献帝の表情が初めて微かに動いた。


董承は、主君が呂布に何らかの期待を寄せていることを感じ取り、あえて諫言する。

「陛下。ですが、密偵の報告を思い出されませ。あの男は、人の臣たる器ではございませぬ。その武も、その器も、あまりに強大すぎる。下手に頼れば、曹操という狼を追い払った後に、我ら漢室そのものが、あの鬼神に飲み込まれるやもしれませぬ。ご期待なさるには、あまりに危険な賭けかと…」


だが、献帝は静かに首を横に振った。

「…いや、違う」

その声には、これまで董承が聞いたこともないような強い意志の光が宿っていた。

彼の脳裏に、あの謁見の光景が鮮やかに蘇る。

曹操が作り出す息詰まるような空気の中で、あの男だけが、何者にも屈しない絶対的な「個」として、そこに立っていたのだ。

「董承。其方は、あの男の魂の輝きを見ておらぬからそう申すのだ」

献帝は、立ち上がると窓辺へと歩み寄った。


「あの男の瞳は、袁紹や、ましてや曹操とは違った。そこにあったのは野心や計算ではない。ただ、己が信じる『義』を貫かんとする、一点の曇りもない烈火の如き魂だった」

その、あまりにも純粋な期待。董承は、若き主君の言葉に言葉を失った。


「呂布は、時を待っているのだ」

献帝の声が、熱を帯びる。

「どちらが真に漢室を思う者で、どちらが逆賊か、その本性が見極められる時を。そして、逆賊を討つという絶対的な大義名分が得られる、その時を待っているに違いない」


「陛下…」

董承は、若き主君のあまりに純粋な期待に、現実を知る者として胸を痛めた。だが同時に、若き帝のその信念が、微かな火種となって胸を温めたのもまた事実だった。


やがて、董承が部屋を辞した後、一人残された献帝は、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。

冷たい格子窓を開け放つと、遥か北の、并州があるであろう方角の空を見上げる。

星も見えぬ、漆黒の闇。

だが、彼の目には、その闇の向こうで一つの巨大な赤い星が、静かに、しかし力強く輝いているのが見えているかのようだった。


「頼む、呂将軍…」

彼の唇から、祈りが漏れた。

「朕の、この漢王朝の、最後の希望となってくれ…」


金色の鳥籠の中で、無力と思われていた若き皇帝の祈り。

その、誰にも知られぬ儚くも強い祈りが、やがて天下を動かす巨大な嵐の、最初のそよ風となることを、まだこの国の誰も、知る由もなかった。

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