第五十六話:境界の民
第五十六話:境界の民
灼熱の太陽が大地を焦がし、陽炎が太行山脈の稜線を揺らめかせる夏の日。
并州と冀州を分かつ国境の砦は、まるで乾ききった獣の骨のように、静まり返っていた。
物見櫓の上で、飛将・呂布は腕を組み、眼下に広がる景色を静かに見下ろしている。
遥か南、官渡の地では二人の英雄が天下を賭けて睨み合っているという。だが、その熱狂もここまで届くことはない。ここにあるのは、乾いた風の音と、どこまでも続く山々の雄大な稜線だけだった。
「…静かなものだな」
隣に立つ猛将・張遼に、呂布は誰に言うでもなく呟いた。
「晋陽で地図を眺めているだけでは、この静けさの重みは分からん。高順は、この静寂を、ただ一人で守り続けているのだな」
彼の言葉には、君主として自らの領地の現実をその目で確かめるという、確かな自覚が宿っていた。父・丁原の死後、彼は時折こうして、予告なく領内の砦を視察して回るようになっていた。
張遼もまた、その主君の変化を肌で感じていた。
「はっ。高順も、殿がこうして直々にお越しくだされば、兵たちの士気もいや増すことでしょう」
だが、その穏やかな空気が破られたのは、あまりにも突然のことだった。
遠く、冀州側から続く街道に、もうもうたる土煙が立ち上ったのだ。それは、通常の旅人や商人の一行が出す規模ではない。
「敵襲か!?」
物見櫓の兵士が、緊張に声を震わせる。
だが、呂布の目は、その土煙の正体を冷静に見極めていた。
「…いや、違う。あれは、敗残兵だ」
やがて土煙の中から現れたのは、鎧は汚れ、旗印も失い、ただ生き延びるためだけに逃げてきたと分かる、数百の兵士の集団であった。彼らは袁紹軍の兵士だった。官渡の戦いの苛烈さに耐えかね、軍を脱走してきたのだろう。
彼らは并州の国境を越えると、近くの小さな村へと、まるで飢えた狼の群れのように殺到していくのが見えた。
「将軍! いかがなさいますか!」
砦の守備隊長が、血相を変えて呂布の前に進み出た。彼は高順に鍛え上げられた、規律を重んじる男だ。
「法に従い、領地を侵した者は、即刻、斬り捨てるべきです! 放置すれば、必ずや民に害をなします!」
それは、并州の法であり、国の守りを固めるための、絶対的な「正義」であった。
だが、張遼がそれに鋭く反論した。
「待て! 彼らもまた、戦に追われた哀れな民に変わりない! 飢えに迫られてのことだ。ここで無慈悲に斬り捨てれば、我ら并州の評判は地に落ち、袁紹にさらなる侵攻の口実を与えるだけだ! まずは、武器を捨てさせ、投降を促すべきでしょう!」
それは、目の前の命を救い、大局を見据えた「情」と「理」に基づく意見だった。
「法」か、「仁」か。
二つの正義が、火花を散らす。
部下たちの視線が、絶対的な裁定者である呂布へと注がれた。
呂布は、何も言わなかった。
ただ、赤兎に跨ると、一人、砦の門を駆け下りていった。
「殿!」
張遼たちの制止の声も聞かず、彼は単騎、村へと向かう。
村では、案の定、脱走兵たちが民家を取り囲み、食料を出すよう脅していた。だが、彼らの瞳に宿るのは悪意ではなく、ただ飢えと絶望だけだった。
そこへ、一体の赤い流星が舞い降りた。
呂布の、鬼神の如き覇気を前に、脱走兵たちは為す術もなく武器を取り落とし、その場にひれ伏した。恐怖に震える彼らは、自分たちがこれから斬り殺されるのだと、そう確信していた。
だが、呂布は、方天画戟を振り下ろさなかった。
彼は、馬上から、その一人一人を見渡し、そして、雷鳴のように、しかし静かに言った。
「…貴様ら、腹が減っているのか」
その、あまりにも予想外の問いに、兵士たちは顔を上げた。
「ならば、食わせてやろう。腹一杯、食わせてやる。この并州の糧をな」
麦や粟、豆が主となるこの北方の地で穫れる、ありのままの食い物。その言葉の持つ無骨で、しかし確かな響きに、兵士たちの間に安堵とも驚きともつかないどよめきが広がった。
呂布の言葉は、そこで終わらなかった。
「だが、ただでは食わせん。この并州の土から得た糧を食むからには、俺の民となってもらう。俺の民となるからには、この地の法に従ってもらう。武器を捨て、鍬を握り、この地で、自らの汗を流して生きる覚悟がある者だけ、ついてこい」
すると群衆の中から、一人の若い兵が立ち上がり、声を震わせて叫んだ。
「も、戻る故郷もございませぬ…! どうか、この并州に置いてください! 二度と剣は取りませぬ!」
それを皮切りに、他の兵たちも涙を流し、次々と呂布の前に額をこすりつけた。
呂布は厳しい眼差しを向けたまま、最後に告げる。
「その覚悟なき者は、今すぐこの場を去れ。だが、もし、この并州の地で再び剣を取り、民を脅かすようなことがあれば、その時は、この俺が、貴様らの命を、一片の情けもなく刈り取る。…選べ」
生きる道と、死ぬ道。
その、あまりにも公平な選択肢を前に、脱走兵たちは声をあげて泣き伏した。
その光景を、砦の上から見ていた張遼は、ただ、己の主君の器の大きさに、言葉もなく立ち尽くしていた。
(見栄を張った美辞麗句ではない。この土地で生きる、ありのままの現実。それを民に与え、共に背負うという覚悟。それが「糧」という一言に込められている…)
一時の気まぐれな温情ではない。この并州の全てをもって、彼らを新たな民として受け入れるという、揺ぎない覚悟の表明に他ならなかった。
(…殿は、法と仁、その両方を呑み込まれた。かつての猛将ではない。これぞ、天下を担う者の器か…)
やがて、呂布は晋陽へと戻る道すがら、張遼に静かに語りかけた。
「張遼。并州の土地だけでは、全ての流民を受け入れることは、いずれできなくなるだろう。我らは、中原に、新たな楽土を築かねばならん」
彼の視線は、地図の一点を、はっきりと捉えていた。
――荒れ果てた旧都、「洛陽」。
それは、もはや「静観」という消極的な判断ではない。
目の前の民を救うという、切実で、積極的な「義」のために。
君主は、次なる一手、壮大な布石を打つことを、固く決意していた。




