表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
204/227

幕間:怪物の警戒

幕間:怪物の警戒

官渡、曹操軍本陣。


秋風が吹き抜け、野営の幕舎を激しく揺らしていた。

風の音に混じり、遠く黄河の対岸に陣取る袁紹軍のかすかな鬨の声が、まるで地の底からの呻きのように響いてくる。


幕舎の中は、重い沈黙に支配されていた。

怪物・曹操は、灯火の下で地図を睨みつけていた。その顔には、連日の激戦と兵糧不足による疲労の色が深く刻まれている。河北の覇者・袁紹との戦いは、完全な膠着状態に陥っていた。兵力では圧倒的に劣り、じりじりと追い詰められていく焦燥感が、彼の全身から滲み出ていた。


(…まだだ。まだ、好機は来ぬか…)


その、張り詰めた静寂を破り、背後で静かに幕が開かれた。

現れたのは、軍師・郭嘉。その顔にも、いつもの飄々とした余裕はなく、目の下には深い隈が刻まれている。


「殿。并州より、急報にございます」

郭嘉の声は、常よりも低く、そして硬かった。


「…呂布か」

曹操は、地図から目を離さずに、忌々しげに呟いた。「あの獣が、この機に乗じて、我らの背後を突くとでもいうのか」


「いえ…」

郭嘉は、一枚の密書を差し出した。

「…真逆でございます」


曹操は、訝しげにそれを受け取ると、目を通した。

そこに記されていたのは、にわかには信じがたい内容であった。

郭嘉が、その内容を淡々と、しかし重い響きを込めて口にした。


「呂布の三女・華と、西涼の馬超が正式に婚約」

「次いで、呂布の次女・飛燕の婿として、元・公孫瓚麾下の猛将、趙雲を迎えた、と」


その、二つの、あまりにも重い報せ。

曹操は、しばし言葉を失った。


「…この、天下分け目の戦の最中に…祝言だと?」

彼の声には、怒りを通り越した、呆れと、そして底知れぬ不気味さがこもっていた。

「西涼の小僧を手懐け、趙雲という野良犬を拾うか…。あの獣、この俺が袁紹に釘付けになっている間に、着々と牙を研いでいやがる…!」


郭嘉は、静かに、しかし恐ろしいほどの冷静さで分析を続けた。

「殿。警戒すべきは、馬超との縁談よりも、むしろ趙雲やもしれませぬ」


「何?」


「呂布は、金や地位ではない、『家族』という絆で、主を失った猛者を引き入れている。これは、一度忠誠を誓えば決して裏切らぬ兵が生まれるということ。呂布は、我らの知らぬやり方で、その力を増しているのです」


その言葉に、曹操は初めて本物の戦慄を覚えた。

そうだ。自分が、最も不得手とするもの。人の心を掴むという、あの呂布が持つ不可解な力。

そして今、その不可解な力で、あの怪物は、この自分が袁紹と死闘を繰り広げている、まさにその裏で、自らの王国を盤石に固めている。


「…面白い」

長い沈黙の後、曹操は呟いた。

その声は、もはや悦びではない。

自らが絶体絶命の窮地にいるというのに、それを嘲笑うかのように、遥か北の地で力を蓄える、もう一匹の怪物への、純粋なまでの憎悪と、そして恐怖であった。


彼は、地図の上の「并州」を、まるで喰い殺さんばかりの憎悪を込めて睨みつけると、郭嘉に向き直った。

「奉孝。覚えておけ。袁紹は、目先の餌だ。だが、あの北の怪物は、我らが天下を統一する上で、最後に必ず喰い殺さねばならぬ、真の宿敵だ」

その声は、決意というよりも、呪詛に近かった。


「御意。ですが、今はまず、目の前の餌を喰らい尽くし、我らが力を蓄えるのが先決かと」

郭嘉もまた、静かに頷いた。


二人の天才の視線が、交錯する。

その瞳に映っているのは、もはや官渡の戦いの勝利ではない。

その先にある、真の最後の敵の姿であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ