幕間:怪物の警戒
幕間:怪物の警戒
官渡、曹操軍本陣。
秋風が吹き抜け、野営の幕舎を激しく揺らしていた。
風の音に混じり、遠く黄河の対岸に陣取る袁紹軍のかすかな鬨の声が、まるで地の底からの呻きのように響いてくる。
幕舎の中は、重い沈黙に支配されていた。
怪物・曹操は、灯火の下で地図を睨みつけていた。その顔には、連日の激戦と兵糧不足による疲労の色が深く刻まれている。河北の覇者・袁紹との戦いは、完全な膠着状態に陥っていた。兵力では圧倒的に劣り、じりじりと追い詰められていく焦燥感が、彼の全身から滲み出ていた。
(…まだだ。まだ、好機は来ぬか…)
その、張り詰めた静寂を破り、背後で静かに幕が開かれた。
現れたのは、軍師・郭嘉。その顔にも、いつもの飄々とした余裕はなく、目の下には深い隈が刻まれている。
「殿。并州より、急報にございます」
郭嘉の声は、常よりも低く、そして硬かった。
「…呂布か」
曹操は、地図から目を離さずに、忌々しげに呟いた。「あの獣が、この機に乗じて、我らの背後を突くとでもいうのか」
「いえ…」
郭嘉は、一枚の密書を差し出した。
「…真逆でございます」
曹操は、訝しげにそれを受け取ると、目を通した。
そこに記されていたのは、にわかには信じがたい内容であった。
郭嘉が、その内容を淡々と、しかし重い響きを込めて口にした。
「呂布の三女・華と、西涼の馬超が正式に婚約」
「次いで、呂布の次女・飛燕の婿として、元・公孫瓚麾下の猛将、趙雲を迎えた、と」
その、二つの、あまりにも重い報せ。
曹操は、しばし言葉を失った。
「…この、天下分け目の戦の最中に…祝言だと?」
彼の声には、怒りを通り越した、呆れと、そして底知れぬ不気味さがこもっていた。
「西涼の小僧を手懐け、趙雲という野良犬を拾うか…。あの獣、この俺が袁紹に釘付けになっている間に、着々と牙を研いでいやがる…!」
郭嘉は、静かに、しかし恐ろしいほどの冷静さで分析を続けた。
「殿。警戒すべきは、馬超との縁談よりも、むしろ趙雲やもしれませぬ」
「何?」
「呂布は、金や地位ではない、『家族』という絆で、主を失った猛者を引き入れている。これは、一度忠誠を誓えば決して裏切らぬ兵が生まれるということ。呂布は、我らの知らぬやり方で、その力を増しているのです」
その言葉に、曹操は初めて本物の戦慄を覚えた。
そうだ。自分が、最も不得手とするもの。人の心を掴むという、あの呂布が持つ不可解な力。
そして今、その不可解な力で、あの怪物は、この自分が袁紹と死闘を繰り広げている、まさにその裏で、自らの王国を盤石に固めている。
「…面白い」
長い沈黙の後、曹操は呟いた。
その声は、もはや悦びではない。
自らが絶体絶命の窮地にいるというのに、それを嘲笑うかのように、遥か北の地で力を蓄える、もう一匹の怪物への、純粋なまでの憎悪と、そして恐怖であった。
彼は、地図の上の「并州」を、まるで喰い殺さんばかりの憎悪を込めて睨みつけると、郭嘉に向き直った。
「奉孝。覚えておけ。袁紹は、目先の餌だ。だが、あの北の怪物は、我らが天下を統一する上で、最後に必ず喰い殺さねばならぬ、真の宿敵だ」
その声は、決意というよりも、呪詛に近かった。
「御意。ですが、今はまず、目の前の餌を喰らい尽くし、我らが力を蓄えるのが先決かと」
郭嘉もまた、静かに頷いた。
二人の天才の視線が、交錯する。
その瞳に映っているのは、もはや官渡の戦いの勝利ではない。
その先にある、真の最後の敵の姿であった。




