幕間:猛将の感嘆
幕間:猛将の感嘆
謁見の間は、張り詰めた静寂に支配されていた。
某、張遼は、主君である呂布将軍のすぐ傍らに控えながら、広間の中央に進み出てきた一人の男を、鋭い、しかし純粋な好奇の目で見つめていた。
常山の趙子龍。
噂には聞いていた。だが、実際に目の当たりにしたその男は、噂を遥かに超える気配を放っていた。
白銀の鎧は華美ではないが、一点の曇りもなく磨き上げられている。その立ち姿は、まるで深山に根を張る千年樹のように、微動だにしない。
(ほう、良い眼をする)
あの、涼やかな瞳の奥に宿る光は、ただの強者のそれではない。
幾多の修羅場を潜り抜け、それでもなお己の信じる何かを失っていない者だけが持つ、澄み切った輝きがあった。
だが、それ以上に驚かされたのは、我が主君の覇気を前にして、その男が少しも揺らがなかったことだ。
殿が玉座から放つ威圧感は、もはや人のものではない。並の猛将であれば、その視線だけで膝が震え、満足に息もできなくなるはずだ。
だというのに、この趙雲という男は、その全てを凪いだ湖面のように静かな気配で受け止め、そしていなしている。
(こいつ…! ただ者ではないぞ…!)
武人としての本能が、警鐘を鳴らしていた。
やがて、殿が口を開いた。
誰もが、その武を試すための言葉を待っていたはずだ。某自身も、手合わせを命じられるものと、心のどこかで期待していた。
だが、殿の口から出たのは、全く予想だにしない問いだった。
「趙子龍。貴殿のその槍は、民のためにあるのか、漢室のためにあるのか」
(……なに?)
その問いの意図がすぐには理解できず、内心で戸惑った。
なぜ、殿は武を試されぬのだ?
武人にとって、その槍が何のためにあるかなど、答えは一つのはずだ。
主君のために。ただ、それだけだ。
無意識に、自分にその問いが向けられたらどう答えるかを考えていた。
(某の槍は、殿のためにある。殿が信じる道が、某の道だ。それ以上でも、それ以下でもない)
だが、それではこの問いの答えにはなっていないことに、すぐに気づかされた。
殿が問うているのは忠誠の形ではない。その、さらに奥底にある、魂の在り処そのものなのだ。
(殿とこの趙雲という男が見ている世界に、自分はまだ立てていないのではないか)
そんな、戦慄にも似た感覚が背筋を駆け上った。
広間が、息詰まるような沈黙に包まれる。
まるで自分自身が試されているかのような錯覚に陥り、固唾を飲んでその答えを待った。
やがて、趙雲が語り始めた。
「民なくして漢室なく、漢室なくして民の安寧はございません…」
その言葉の一つ一つが、理屈ではない。まるで清流の水が乾いた大地に染み込むように、魂に直接響いてきた。
そうだ。そうに決まっている。
なぜ、こんな単純な答えに気づけなかったのだ。
「故に、我が槍は、民を慈しみ、漢室を尊ぶ、その両方を体現する『義』を持つ君主のためだけに振るわれます」
答えを聞き終えた時、全身に鳥肌が立つのを感じていた。
あれは、ただの口答えではない。
一人の英雄が、その生涯をかけて見つけ出した「道」そのものだ。
そして、その道は、我が主君・呂布将軍が、丁原様と張譲殿という二人の父を失い、幾多の苦悩の末にようやく見つけ出された道と、寸分違わぬものだった。
その時、全てを悟った。
これは武の優劣を決めるための謁見ではなかったのだ。
互いの魂が同じ輝きを持つかどうかを確かめ合う、英雄同士の、真贋の見極めだったのだ。
殿が、満足げに玉座から立ち上がるのを見て、心は確信に満たされた。
我が主君は、これほどの男を言葉一つで惹きつける器を得られたのだ。
そして、これほどの男が、我らの新たな同胞となる。
并州は、もはや北の辺境ではない。
天下を動かす、その中心となるのだ。
その静かな、しかし確信に満ちた興奮と喜びを胸に、某は主君が下すであろう裁定を、ただ誇らしい気持ちで見守っていた。