第五十四話:白龍の答え
第五十四話:白龍の答え
謁見の間は、絶対的な静寂に支配されていた。
呂布が放った問いはあまりにも重く、あまりにも本質的であったが故に、その場にいる全ての者の呼吸を、そして思考すらも奪った。
貴殿の槍は、民のためにあるのか、漢室のためにあるのか。
その問いは、趙雲という一人の武人の魂の真贋を問うだけでなく、この乱世に生きる全ての将がいつかは向き合わねばならぬ究極の選択であった。
飛燕は、祈るように両手を強く握りしめた。
陳宮と徐庶は、眉一つ動かさず、ただ静かにその答えを待つ。
張遼ですら固唾を飲んで、広間の中央に立つ男の、大きくも静かな背中を見つめていた。
趙雲は、その問いの重さを、その真意を、瞬時に理解していた。
彼は一瞬だけ静かに目を閉じた。己の魂の深奥と対話するかのように。
そして、ゆっくりと顔を上げた時、その瞳には一点の曇りもない、絶対的な覚悟の光が宿っていた。
彼の声は静かだったが、広間の隅々にまで染み渡るような、不思議な響きを持っていた。
「…お答えいたします」
彼はまず、自らの過去を語り始めた。
「かつて某が仕えた御方は、漢室の復興を心から願い、そのために戦い続けられました。その志はまことに気高いものであったと、今も信じております。ですが…」
彼の脳裏に、袁紹との長きにわたる不毛な戦で疲弊していく民の顔が、ありありと浮かんだ。
「…戦に明け暮れる中で、民は疲弊いたしました。漢室という『名』だけを守ろうとしても、民の暮らしという『実』が伴わねば、それは砂上の楼閣に過ぎぬと、某は知りました」
その言葉に、呂布は眉一つ動かさなかったが、その瞳の奥で、かつて酸棗で見た諸侯たちの、虚しい「名」にすがるだけの姿を重ね合わせ、静かに聞き入っていた。
趙雲は、続けた。その視線は、今度は広間にいる并州の将たちへと向けられた。
「ですが、この并州に来て、某は逆の光景を見ました。民は笑い、子は学び、土地は潤っている。これこそ、漢の民が求める真の安寧の姿。民の安寧なくして、漢室の栄華などありえませぬ」
そして、彼の視線は再び壇上の呂布へと、真っ直ぐに戻された。
彼は、ついにその魂の答えを口にする。
「民なくして漢室なく、漢室なくして民の安寧はございません」
その声は、揺るぎない断言であった。
「この二つは車の両輪、鳥の両翼。どちらか一つを選ぶなど、愚の骨頂にございます」
広間に、感嘆とも畏敬ともつかぬ、かすかな、しかし確かな空気の揺らぎが生まれた。
陳宮と徐庶の口元に、満足げな笑みが浮かぶ。
張遼は、武人としての純粋な敬意をその目に宿した。
そして飛燕は、強張っていた肩から力が抜け、誇らしさと安堵の温かい涙が、その目にじわりと滲んだ。
だが、趙雲の言葉はまだ終わらない。
最後に、彼は自らの槍に懸けた絶対的な誓いを宣言した。
「故に、我が槍は、民を慈しみ、漢室を尊ぶ、その両方を体現する『義』を持つ君主のためだけに振るわれます」
彼の瞳が、呂布を射抜く。
「そのような御方であればこそ、この趙子龍、この命、喜んで捧げましょう!」
その、あまりにも完璧で一点の曇りもない答え。
それは、彼がこれまでの旅路と人生の全てを懸けて見つけ出した、魂の結晶であった。
広間は完全な沈黙の後、抑えきれぬ感嘆のため息に包まれた。
呂布の脳裏に、二人の父の声が雷鳴のように蘇っていた。
『義とは民を守ることだ』
それは、育ての親、丁原の、生涯をかけた教え。
『独りよがりになってはなりませぬ』
それは、もう一人の父、張譲がその命を賭して遺した、最後の諫言。
そして、呂布自身が血の滲むような苦悩の末にようやく辿り着いた答え。
その全てが、今、目の前の若者の口から完璧な形で語られた。
この男は、自分と同じだ。
同じ痛みを知り、同じ苦悩を乗り越え、そして、同じ「義」の頂を目指す、魂の同類なのだ。
呂布は、主の座からゆっくりと立ち上がった。
その表情にはもはや君主の厳しい色はなく、ただ、好敵手であり未来の息子となるであろう男を見つけた、心からの満足げな笑みが浮かんでいた。
彼の、腹の底からの笑い声が、広間全体を震わせた。
「―――はっはっはっは! 見事だ! 実に、見事な答えであった、趙子龍!」
そして、呂布は壇上から数段の階段を降り、自ら趙雲の前へと歩みを進めた。
并州の主が、自らの座を離れ、まだ忠誠を誓ってもいない一人の若武者の前へと、歩み寄っていく。
儀礼を重んじる陳宮の眉が、わずかに動いた。歴戦の将である張遼ですら、驚きに目を見開いている。
広間にいた全ての者が、息をすることさえ忘れ、その光景に釘付けになった。
それは、謁見の主と客という立場を超え、一人の傑出した魂が、もう一つの魂に、対等な敬意を示した瞬間であった。
この日、この時から、并州の歴史が、そしてこの二人の男の運命が、単なる主従という言葉では表しきれぬ、固い絆で結ばれようとしていることを、その場にいた誰もが予感していた。