第九ノ二話:獣の牙、そして三雄の目覚め
第九ノ二話:獣の牙、そして三雄の目覚め
黒沙の狂気に満ちた咆哮が、戦場に響き渡る。
それに応えるかのように、三人の猛将の間に、言葉はなくとも、確かな闘気の連携が生まれた。
呂布の、怒りと屈辱を力に変えた、燃え盛る覇気。
関羽の、義憤に燃えながらも、決して冷静さを失わない、氷のような闘気。
張飛の、兄と友を傷つけられたことへの、荒れ狂う嵐のような殺気。
三者三様の、しかし規格外の気迫が一つに合わさり、黒沙一人へと向けられる。虎牢関の大地が、その凄まじいプレッシャーに震えた。
「面白い! 面白いぞ!」
その気迫を前にしても、黒沙は狂気の笑みを崩さない。彼は、もはや三人を個別の敵として見てはいなかった。自らの武名を天下に示すための、最高の獲物としか見ていない。彼の戦いぶりは、定石など存在しない、まさしく戦場を生き抜いてきた獣のそれであった。
最初に動いたのは、黒沙だった。
彼は、最も武威の高い呂布を直接狙うのではなく、まず感情の起伏が激しい張飛を狙い、鉄蒺藜骨朶を地面に叩きつけた。ゴッという鈍い音と共に、土と小石が爆ぜ、張飛の愛馬の目を狙う。
「うおっ! こざかしい真似を!」
馬が怯んで一瞬動きが止まる。その刹那、黒沙は呂布ではなく、冷静沈着な関羽へと突進した。彼の狙いは、三人の連携を分断し、最も厄介な関羽の動きを封じることにあったのだ。
「させるか!」
呂布は即座に黒沙の意図を読み、赤兎を駆けさせ、間に割り込もうとする。しかし、黒沙は呂布が動くことすら計算に入れていた。彼は関羽に肉薄する寸前、馬の腹を強く蹴り、不自然な角度で急停止すると、その勢いを利用して、体ごと回転させながら鉄蒺藜骨朶を呂布の死角である背後から薙ぎ払ってきたのだ!
呂布の背筋に、冷たい汗が流れた。もはや戟で受けるには間に合わない。彼は、鐙から両足を外し、馬の背に半ば寝そべるようにして、その凶悪な一撃を髪の毛一本の間合いで回避した。鉄塊が、彼の兜の飾りを掠め、嫌な音を立てて砕け散る。
「ほう…避けるか。面白い」
黒沙は、舌なめずりをしながら、再び距離を取った。彼は戦いを楽しんでいる。獲物をじわじわと追い詰め、その心身が消耗し、絶望した瞬間に喉笛を食いちぎる、飢えた狼のように。
「くそっ! ちょこまかと動き回りやがって!」
張飛の苛立ちが募る。彼の豪快な蛇矛は、このような狡猾な相手とは相性が悪い。
「落ち着け、三弟! 敵の狙いは我らを焦らせ、陣形を崩すことにある!」
関羽は冷静に状況を分析するが、有効な手立てが見つからない。三人の間には、一瞬の、しかし致命的な迷いが生じた。互いの実力は認めつつも、その戦い方、呼吸が全く合わない。
(これだ…これこそが奴の本当の狙いか!)
呂布は、黒沙の戦術の奥にある、真の狙いを悟った。彼は、三人の英雄が持つ、それぞれの「誇り」と「戦い方」の違いそのものを突き、彼らが自滅するのを待っているのだ。
(だが、俺たちはただの武人ではない…!)
呂布は、自らのプライドを、一瞬だけ、心の奥底に押し殺した。そして、叫んだ。
「関羽殿! 張飛殿! このままでは奴の思う壺だ! 俺が奴を引きつける! お前たちは、奴の足と退路を断て!」
それは、孤高の飛将からは考えられない、仲間を信頼し、役割を委ねるという、将としての命令であった。
「…承知!」
関羽は、呂布の意図を瞬時に理解した。この男は、今、自らの牙を収め、我らを信じようとしている。
「おうよ! やってやろうじゃねえか!」
張飛もまた、兄と呂布の覚悟を感じ取り、獰猛な笑みを浮かべた。
三人の英雄の心が、初めて一つになった。
「うおおおおおおっ!」
呂布が、咆哮と共に正面から黒沙へと猛攻を仕掛けた。それは、敵を倒すための攻撃ではない。ただ、黒沙の注意を自分一人に引きつけ、その動きを縛り付けるための、命懸けの陽動。方天画戟が嵐のように繰り出され、黒沙の視界を完全に支配する。
「小僧が! 死にたいらしいな!」
黒沙は、呂布が焦れたと見て、その猛攻を受け止めることに集中した。
その隙を、二人の英雄が見逃すはずはなかった。
「はあっ!」
関羽が動いた。その動きは、水が流れるように静かでありながら、恐ろしく速い。彼は冷静に敵の死角へと回り込むと、その青龍偃月刀を、まるで大地そのものを両断するかのような凄まじい威力で、黒沙の馬の脚めがけて薙ぎ払った。馬は甲高い悲鳴を上げて崩れ落ちる。
「でりゃああああっ!」
落馬し、体勢を崩した黒沙。その退路を、張飛の蛇矛が黒い竜巻のように塞いだ。彼の槍は、荒々しく、予測不能。だが、その一撃一撃は、黒沙が逃げようとする全ての道を、完璧に封鎖していた。
「なっ…!?」
初めて、黒沙の顔に焦りの色が浮かんだ。完璧な連携。自分が最も警戒していた形だった。
そして、その黒沙の前に、再び呂布が立ちはだかる。陽動の役目を終えた彼の瞳には、もはや焦りはない。ただ、獲物を仕留める鬼神の、冷徹な光だけが宿っていた。
「終わりだ、獣」
呂布の方天-画戟、関羽の青龍偃月刀、張飛の蛇矛。三つの伝説の武具が、一つの獲物を目指し、寸分の狂いもなく同時に繰り出された。
それは、もはや人が避けることのできぬ、絶対的な死の包囲網。
三つの刃が、獣の牙を砕くかと思われた、まさにその時であった。




