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第二話:飛将の咆哮

第二話:飛将の咆哮

呂布奉先は、ただ一人、五千の敵に向かっていた。背後からは三百の部下たちの鬨の声と地響きが追いかけてくる。その声援が、彼の背中を熱く押していた。眼前に迫る、黒い匈奴の騎馬兵団。先頭に立つ将の顔に浮かぶのは、驚愕か、侮りか、あるいは恐怖か。全てが、彼の研ぎ澄まされた感覚の中で、鮮明に、しかしどこか現実離れした光景のように映っていた。


(――来る!)


匈奴の先鋒隊が、ついにその異常な突撃者を迎え撃つべく、弓を引き絞る。馬上から放たれる無数の矢が、風を切り裂き、白い軌跡を描いて呂布に殺到した。


「遅い!」


馬上、呂布の体は常人には不可能な動きを見せた。馬の首に隠れるように身を屈めたかと思えば、次の瞬間には(あぶみ)に片足で立ち上がり、飛来する矢を方天画戟の柄で叩き落とす。避けきれぬ数本は、右手に持つ方天画戟が描く円運動によって、ことごとく叩き落とされ、あるいは軌道を変えられて虚空に舞った。まるで舞を舞うような、しかしその実、一瞬の判断ミスも許されない死線上の攻防。神業としか言いようのない戟捌きと馬術の融合に、匈奴兵たちの間に明らかな動揺が走った。彼らがこれまで対峙してきたどの漢の武人とも、この男は次元が違っていた。


瞬く間に敵陣の目前に到達した呂布は、咆哮と共に方天画戟を横薙ぎに一閃させた。狙いは、密集する敵騎兵の脚。


「ぎゃああ!」

「馬が!」


悲鳴と共に、先頭にいた数騎の匈奴兵がバランスを崩し、人馬もろとも派手に転倒する。後続の騎馬がそれに躓き、敵陣の先鋒は一瞬にして混乱に陥った。呂布はその隙を決して逃さない。混乱の中心へと、愛馬「飛雪」を駆って容赦なく突入していく。


それは、まさしく猛虎が羊の群れに躍り込んだかのようであった。方天画戟が、時に薙ぎ、時に突き、時に打ち付け、変幻自在に宙を舞う。月牙(げつが)と呼ばれる左右の刃は敵兵の鎧を紙のように切り裂き、穂先は急所を正確に貫き、重い柄の部分ですら、打ち付けられれば骨を砕く鈍器と化す。その戦いぶりは、荒々しく、力強く、それでいて恐ろしく洗練されていた。


「な、なんだこの男は…! まるで鬼神だ!」

「囲め!囲んでしまえ!数で押し潰すのだ!」


匈奴兵たちも、草原の覇者としての意地がある。最初の衝撃から立ち直ると、数の利を活かし、波状攻撃を仕掛けてくる。四方八方から槍が、刀が、独特の反りを持つ曲刀が、呂布と飛雪目掛けて繰り出された。


「ふん、数だけは揃えてきたようだな!」


呂布は嘲笑うかのように呟くと、方天画戟を独楽(こま)のように回転させ、襲い来る刃を弾き飛ばしながら周囲の敵を一掃する。そして、一際高く鋭い、まさに飛将の咆哮とも言うべき鬨の声を上げた。その声には、敵の戦意を挫くような威圧感が満ちていた。彼は敵の雑兵には目もくれず、ただ一点、敵の指揮官と思われる「黒狼」の旗を持つ将に向かって、一直線に突き進んだ。


将の首を取れば、それで終わりよ。彼の思考は単純明快だった。


黒狼の将も、一部族を率いるだけのことはある。迫り来る呂布の凄まじい気に怯むことなく、自らも馬を駆り、使い込んだ長大な曲刀を抜き放って迎え撃った。「黒狼」の名は伊達ではないことを示そうと、獰猛な闘志をその目に宿している。


「漢の小童(こわっぱ)が、我ら匈奴の地を侵すとは! その首、貰い受ける!」


耳をつんざく金属音と共に、腕に骨まで響くような衝撃が走る。鉄の焼ける匂いと、血の生臭い匂いが混じり合い、呂布の鼻腔を満たした。足元の土はぬかるみ、踏みしめるたびにぐちゃりという嫌な音がする。一度、二度、三度と打ち合う。その度に、黒狼の将の腕に痺れるような衝撃が走った。受け止めるのがやっとだ。目の前の若者の膂力(りょりょく)は、人間のそれではない。


(これが…并州の飛将…! 噂以上だ…! だが!)


黒狼の将は、曲刀を巧みに操り、呂布の戟の隙を突いて反撃を試みる。その動きは老獪で、長年の経験に裏打ちされていた。曲刀が予想外の角度から戟の柄を滑り、呂布の頬を浅く切り裂いた。熱い血の感触に、呂布の表情から笑みが消える。


「…やるな」


一瞬の油断。それが命取りだった。呂布の方天画戟の石突(いしづき)部分が、まるで吸い込まれるように黒狼の将の胸の中心を捉えた。重い衝撃音と共に、黒狼の将は目を見開いたまま、言葉もなく馬上から曠野の大地へと吹き飛ばされた。その亡骸は、土埃の中に無残に転がった。


「将軍!」

「く、黒狼様が…討ち取られた!」


絶対的な支柱を失い、匈奴兵たちの士気は一瞬にして崩壊した。そこへ、呂布の突撃によって開かれた道を、張譲に率いられた三百の并州兵たちが、鬨の声を上げながら雪崩れ込んでくる。数は少なくとも、彼らの瞳には決死の覚悟が宿っており、その勢いは凄まじい。


「だめだ、退け! 退けぇ!」


誰かが恐怖にかられて叫び、それが伝染するように全軍へと広がった。五千を数えた匈奴の騎馬兵団は、完全に統制を失い、我先にと北へ向かって敗走を始めた。


呂布は、深追いすることは命じなかった。ただ馬上から、逃げ惑う敵兵の背中を冷ややかに見つめている。彼の周囲には、敵兵の亡骸と、そして奮戦して倒れた僅かな味方の兵士の姿も見える。頬を伝う自らの血を無造作に拭う。その手のひらは、敵の返り血で赤黒く染まっていた。


「奉先様! お見事でございます! まさに飛将の名に恥じぬご武勇!」


張譲が、興奮と安堵の入り混じった表情で駆け寄ってきた。他の生き残った兵士たちも、口々に呂布を称え、勝利の喜びに沸いている。しかし、その中には、仲間を失った悲しみの色も浮かんでいた。


呂布は、そんな部下たちの様子を黙って見渡すと、討ち取った黒狼の将の亡骸を一瞥(いちべつ)した。その首には、粗末だが部族の誇りを示すような装飾品がつけられている。彼らにも守るべきものがあったのだろう。だが、それを蹂躙することは許さない。


「…張譲、損害は?」呂布の声は、勝利の昂揚(こうよう)とは無縁の、静かな響きを持っていた。

「はっ、死傷者、およそ三十…いずれも勇敢に戦いました」

「そうか…」呂布は短く応え、犠牲になった兵士たちの方へ視線を向けた。彼の表情は硬いままだったが、その瞳の奥には、確かな痛みの色がよぎった。「手厚く弔ってやれ。それから、まだだ。奴らが、これで諦めるはずがない。警戒を怠るな」


その言葉には、単なる冷静な状況判断だけでなく、失われた命への責任感のようなものも含まれていた。今日の勝利は、決して安くはない代償の上に成り立っていた。


そして、彼は自らの血に濡れた手を見つめた。黒狼の将も手強くはあった。だが、それでもまだ、魂が震えるような、己の全てをぶつけられるような相手ではなかった。

「…これだけか」

誰にも聞こえない声で、そう呟いた。若き獅子の、満たされぬ渇望。その咆哮は、確かに北方の曠野に響き渡った。だが、彼の魂が真に求める「頂」は、まだ遥か遠くにあった。


呂布は、再び空を見上げた。鉛色の雲は、依然として厚く垂れ込めたまま、この先の彼の多難な運命を暗示しているかのようであった。

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