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第五十三ノ三話:飛将の問い

第五十三ノ三話:飛将の問い

翌朝。

晋陽城で最も大きな謁見の間は、荘厳な静寂と、まるで嵐の前触れのような熱気に満されていた。

夜の間に磨き上げられた石の床は、高い窓から差し込む朝の光を幾筋も反射して、冷たい鏡面のように輝いている。天井を支える巨大な柱には、天へと昇る龍の彫刻が施され、その鱗の一枚一枚に至るまでが、これから始まる儀式を厳粛に見下ろしているかのようだった。


広間上座、一段高い壇上には、ただ一つ、黒漆塗りの大椅子が置かれていた。

そこに、并州の主、大将軍・呂布が深紅の礼装に身を包み、どっしりと腰を下ろしていた。

椅子そのものに、天子を模倣するような過剰な装飾はない。だが、呂布という男が座すことで、その場所は玉座にも勝る絶対的な威厳を放つ『主の座』と化していた。

その両の眼は閉じられていたが、ただそこに在るだけで、彼の存在は広間全体の空気を支配し、一種の聖域へと変えていた。


その両脇には、軍師・陳宮、参謀・徐庶、そして猛将・張遼、高順といった、この国を支える柱石たるべき者たちが、石像のように微動だにせず顔を揃えている。彼らの表情は硬く、誰もが一言も発しない。ただ、これから現れるであろう一人の若武者を待っていた。


広間の末席には、父の特別な許しを得て、飛燕もまた息を殺して座していた。

昨夜の不安と期待が胸の中で渦を巻き、心臓が早鐘のように鳴っている。美しく結い上げたはずの髪の、一筋の乱れすら気にかける余裕もない。彼女の膝の上では、固く握りしめられた拳が白くなるほどに震えていた。


やがて、伝令の厳かな声が、静まり返った広間に朗々と響き渡った。

「常山より、趙雲子龍殿、お成りー」


広間の奥に設えられた重い扉が、地響きにも似た低い音を立てて、ゆっくりと開かれる。

逆光の中に、一人の若武者の人影が浮かび上がった。

旅の汚れを全て洗い流し、磨き上げられた白銀の鎧を纏ったその姿は、朝日を浴びて神々しいまでの輝きを放っている。

彼は居並ぶ猛将たちの鋭い視線を一身に受けながらも、臆する色なく、一点の迷いもない足取りで広間の中央へと進み出た。カッ、カッと響く具足の音は、乱れぬ彼の心音そのもののようであった。そして、主の座の前まで進むと、静かに片膝をつき、深く一礼した。

その一連の所作は、あたかも長年稽古を積んだ舞のように、流麗で完璧だった。


謁見の間が、再び深淵のごとき静寂に包まれる。

呂布は、すぐには言葉を発しなかった。

ゆっくりと瞼を開き、ただ、主の座から射るような視線で、眼下の若武者を睥睨する。

それは、並の人間であれば視線だけで魂ごと砕かれてしまうほどの、絶対的な覇気。この并州の全てを統べる意志そのものが、眼下の男の真贋を、その器の深さを問うているかのようだった。

だが、趙雲は、その全てを凪いだ湖面のように静かな気配で受け止め、そしていなしていた。顔を伏せたまま、微動だにしない。嵐の中心にいながら、その魂は少しも揺らいでいない。


二人の「気」が、目に見えぬ火花となって広間で激突した。

その場の空気は張り詰め、まるで水中にいるかのように重く粘り気を帯ていく。居並ぶ張遼ですら、その肌が粟立ち、呼吸が浅くなるのを感じていた。


(昨日とは、違う…!)

飛燕は息を呑んだ。

昨夜、父の私室で見たものとは、比べ物にならない。あれはまだ、互いの器を探り合う、静かな牽制に過ぎなかった。

だが、今はどうだ。

父は、鬼神の如きその絶対的な覇気を完全に解き放ち、この空間の理すらも捻じ曲げようとしている。

そして、あの男は、その神威の如き重圧を前にして少しも揺らがず、大地に根を張る大樹のように静かに、しかし確かに己の存在を示している。

父と、あの男。二人の偉大な魂が、今、言葉なくして互いの全てを懸けてぶつかり合っている。

その、あまりにも巨大な気の応酬に、彼女は誇らしさと共に、息が詰まるほどの緊張を感じていた。


陳宮と徐庶は、冷静にその対峙を見守っていた。

(この覇気を前にしてもなお、己を見失わずにいられるか。面白い)

趙雲の器が、今、并州全ての重臣たちの前で試されている。


長い、長い沈黙。時が止まったかのような静寂。

誰もが、呂布が趙雲に武芸を試すか、あるいは并州に仕える覚悟を問うものだと思っていた。

だが、主の座にいる男が放った言葉は、その場にいる全ての者の予想を遥かに超えるものであった。

呂布が静かに、しかし広間全体を震わせる声で、問うた。


「趙子龍」


その声は、雷鳴のように重く、そして深かった。

「貴殿のその槍は、民のためにあるのか、漢室のためにあるのか」


広間に衝撃が走った。

あまりにも哲学的で、あまりにも本質的すぎる問い。

武勇を問うでもなく、忠誠を問うでもない。ただ、その魂の根源にある「義」の形を、呂布は問うたのだ。

それは、趙雲の魂の真贋を見極める究極の問い。

そして、呂布自身が父・丁原の死以来、乱世の只中でずっと自問自答し続けてきた、最も重い問いでもあった。


広間の空気が、極限まで張り詰める。

将兵たちは固唾を飲んで、若き龍の答えを待った。

その答え一つで、彼はこの国の英雄となるか、あるいはただの敵となるかが決まるのだ。

飛燕は、祈るように両手を強く、強く握りしめた。


趙雲は、その問いの重さを、その真意を、瞬時に理解していた。

彼は一瞬だけ静かに目を閉じた。己の魂の深奥と対話するかのように。

そして、ゆっくりと顔を上げた時、その瞳には一点の曇りもない、絶対的な覚悟の光が宿っていた。

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