幕間:燕の帰還
幕間:燕の帰還
父との対話を終え、飛燕は自室へと戻った。
侍女たちが灯してくれた灯火を静かに吹き消すと、部屋の中は窓から差し込む月明かりだけの、青白い静寂に包まれた。
彼女は、壁に立てかけてあった愛用の黒い長槍をそっと手に取った。
そして、床に座り込むと、油を染み込ませた柔らかい布で、その冷たい鉄の肌をゆっくりと、そして慈しむように磨き始めた。
シュッ、シュッ、と。布が鉄を擦る規則正しい音だけが、静かな部屋に響き渡る。
父に、全てを認められた。
その事実が、嵐のように荒れ狂っていた彼女の心を、凪いだ湖面のように穏やかに鎮めてくれていた。
『見事だ、飛燕』
あの時の、父の顔。
全てを見透かしたような厳しい瞳の中に、確かに宿っていた温かい光。あれが、鬼神と呼ばれ天下に恐れられる男の、娘にだけ見せる本当の顔なのだ。
父は、自分の苦悩と渇望の全てを、ただの一言で受け止め、そして赦してくれた。
その絶対的な安心感が、彼女の心をじんわりと温めていた。
この槍は、もう自分の鬱屈した魂のはけ口ではない。
共に在るべき友であり、魂の半身。
その冷たい鉄の感触に、彼女は初めて心からの感謝の念を抱いていた。
槍を磨きながら、彼女はこの数ヶ月の出来事を、まるで遠い夢のように思い出していた。
旅立つ前の自分は、確かに孤独だった。
姉や妹がそれぞれの幸せを見つけていく光景が眩しければ眩しいほど、自分の魂が置き去りにされていくような焦燥感に苛まれていた。
あの頃の槍は、ただ闇雲に敵を求めるだけの、飢えた獣の牙だった。
だが、彼は現れた。
脳裏に、あの男の顔が浮かぶ。
常山の、趙子龍。
渓流での、あの決闘。
自分の、荒れ狂う嵐のような槍を、あの男は全て受け止めてくれた。
水のように静かで、それでいて岩をも砕く、あの槍。
初めて感じた、魂が共鳴する歓喜。
「あの人は…」
彼の存在を思うだけで、胸が熱くなり、頬が自然と火照るのを自分でも止められない。
これは恋なのか、それともただの武人としての渇望なのか。
まだ、その答えは分からない。
だが、確かなことは一つだけあった。
あの人の隣にいる時、自分の魂はこれ以上ないほどの安らぎと、そして高揚感に満たされるのだ。
磨き上げた槍の穂先に、月明かりを浴びた自分の顔がぼんやりと映る。
その瞳には、もう迷いはない。
「孤独な旅は、終わった」
己の魂を燃やすべき場所は、遠い戦場ではない。
この并州だ。
父が、姉妹が、そして民が暮らす、この故郷だ。
そして、隣に立つべき魂も、見つけた。
「あの人の隣に立つにふさわしい、武人でありたい」
「そして、父上の、この国の、誇り高き『刃』となる」
彼女の槍は、もはや個人的な渇望を満たすためのものではなかった。
「誰かを守るため」「誰かと共に在るため」の槍へと、その意味を変えようとしていた。
彼女は槍を静かに壁に立てかけると、穏やかな表情で寝台へと向かった。
だが、いざ目を閉じると、今度は別の不安がさざ波のように胸をよぎった。
(あの人は…私のことを、どう思っているのだろう…?)
ただの「腕が立つ、物珍しい女」としか思われていなかったら?
明日、父上の前で、并州に仕える気はないと、そう言ってあっさりと去ってしまったら?
そう思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。呂布の娘としてではなく、ただの飛燕として、あの人にどう映っているのかが、怖くてたまらない。
先程までの武人としての覚悟はどこへやら、今はただ、恋を知ったばかりの一人の乙女の不安が、彼女の心を支配していた。
明日、あの人は、再び父の前に立つ。
そして、全てが決まる。
その運命の瞬間を、彼女は揺るぎない確信と、どうしようもない不安、そして、ほんの少しの少女らしいときめきと共に、見届ける覚悟を決めていた。
その寝顔は、嵐を乗り越え、次なる嵐を待つ者の、静かな緊張と期待に満ちていた。