第五十三ノ二話:父との和解
第五十三ノ二話:父との和解
趙雲が退室し、重い扉が閉ざされた後。
部屋には、父と娘、ただ二人が残された。窓の外では陽が傾き始め、中庭の木々の影が長く、長く伸びている。
揺らめく灯火の炎だけが、二人の間に落ちる永い沈黙を、静かに照らし出していた。
飛燕は、父の前に座してから、もう半刻近く言葉を発せずにいた。
城を発つ前の、あの激しい衝突が嘘のように、今の父の姿は穏やかだった。だが、その嵐の前の静けさにも似た穏やかさが、かえって彼女の心を締め付ける。
(今日こそ、自分の全てを話さねばならない)
そう、覚悟は決めていた。だが、何から話せばいいのか、言葉が見つからなかった。
その沈黙を破ったのは、父・呂布だった。
「…旅は、どうであった」
その声は、君主が臣下に問うものではない。ただ、久しぶりに会った娘の身を案じる、一人の父親の不器用で、少しだけぎこちない響きを持っていた。
その、あまりにも穏やかな問いかけに、飛燕はハッと顔を上げた。
父の瞳には怒りの色も、責める色もない。ただ、静かに自分の言葉を待っている。
その深い眼差しに促されるように、彼女の唇から、自然と言葉がこぼれ落ちた。
「…探しに、行っておりました」
「何をだ」
「私より、強い男を」
飛燕は、真っ直ぐに父の目を見つめ返した。もう、逃げも隠れもしない。
「父上。私は、姉様や華とは違います。この身にあるのは、父上から受け継いだこの槍の腕だけ。ならば、この槍で父上のお役に立ちたいと、そう思っておりました。ですが、この平和な并州には私の魂を燃やせる場所がなかった。このままでは、私は腐ってしまうと、そう思ったのです」
呂布は、娘の言葉を一切遮らず、ただ黙って聞いていた。
その瞳の奥には、様々な感情が渦巻いていた。それは、かつて自分もまた同じ道を歩んだ武人としての共感であり、いつの間にか己の背丈に迫るほどに成長した娘への、眩しさと一抹の寂しさが入り混じった、複雑な感慨であった。
飛燕は、熱を帯びた声で続けた。
決闘のこと、趙雲という男の、あの水のように静かで、それでいて岩をも砕く槍のこと。そして、生まれて初めて味わった完全な敗北のこと。
だが、その敗北がどれほど自分の魂を歓喜させたかということを、彼女は熱っぽく語った。
「父上、私は、私より強い男を見つけました」
そして、彼女は意を決したように、その告白の本当の意味を口にした。
声はわずかに震えていたが、その瞳には、一点の曇りもなかった。
「…私の魂を、真正面から受け止めてくれる男を」
それは、ただの武人への尊敬ではない。
一人の女性が、自らの魂の半身を見つけたと確信する、紛れもない恋の告白であった。
その言葉を受け、呂布は長い、長い間、目を閉じて黙り込んだ。
灯火の炎が、彼の険しい顔に深い影を落とす。過ぎた刻は、まるで永遠のようにも感じられた。
飛燕は、父が怒っているのではないかと不安に唇を噛み締めた。自分のあまりに奔放な告白が、父を傷つけたのではないかと。
やがて、ゆっくりと目を開けた呂布の顔に浮かんでいたのは、怒りではなかった。
深い安堵と、どうしようもない寂しさが入り混じった、複雑な、しかし慈愛に満ちた笑みであった。
「……そうか。ならば、良かった」
その、あまりにも静かで、あまりにも優しい一言に、飛燕の目から堪えていた涙が、はらりとこぼれ落ちた。
呂布は続ける。
「親とは、いつか子の手を離さねばならん。…俺は、お前の孤独に気づいていながら、どうしてやることもできなんだ。ただ、お前をこの城という籠に閉じ込めることしか、思いつかなかった。だが、お前は…」
彼は、心からの感嘆を込めて言った。
「お前は、この父が見つけられなかった『風』を、自らの翼で見つけてきたのだな。…見事だ、飛燕」
彼はゆっくりと立ち上がると、娘の前に歩み寄り、その震える肩に大きな手を置いた。
そして、初めて見せる、ただの父親としての弱さを見せた。
「…すまなかったな」
その不器用な謝罪と、大きな手の温もりに、飛燕の涙腺は完全に壊れた。彼女は父の胸に顔をうずめ、ただ子供のように声を上げて泣いた。
長きにわたる父と娘のわだかまりが、その温かい涙に溶けていく。まさしく、魂が和解する瞬間であった。
やがて、涙が枯れた頃、呂布は娘の肩を優しく離すと、再び君主の、そして父親の顔に戻った。
「よし。ならば、その男が、お前に、そして我が呂家にふさわしい魂の持ち主か、明日の謁見で、この父が、しかと見定めてやろうではないか」
その瞳には、娘の選んだ男への、厳しい、しかしどこか楽しげな光が宿っていた。
飛燕もまた、涙に濡れた顔で、しかし力強く頷き返すのであった。