幕間:龍の見た鬼神
幕間:龍の見た鬼神
侍従に導かれ、静かな回廊を歩きながら、趙雲の心は未だかつてないほどの衝撃に揺さぶられていた。
先程までいた、あの部屋。
ただならぬ覇気を放つ君主と、その隣で息を殺すように控えていた、気高き少女。
あの空間で交わされた、短い、しかしあまりにも濃密な言葉の応酬が、彼の魂に深く刻み込まれている。
(あれが…大将軍・呂布か…)
脳裏に、上座に座すあの男の姿が蘇る。
ただそこにいるだけで、空間そのものを支配する、絶対的な存在感。噂に聞く武威だけではない。その瞳の奥には、数多の修羅場と深い苦悩を乗り越えた者だけが持つ、底知れぬ深淵が広がっていた。
あれは、ただの猛将ではない。真の君主だけが持つ「鬼神」の気配。
だが、趙雲がそれ以上に心を奪われたのは、その鬼神が見せた、ふとした瞬間の「父親」の顔だった。
『娘が、世話になったな』
盤問でも威圧でもなく、まず最初に発せられたのが、父親としての礼の言葉であったこと。その不器用で、しかし偽りのない一言が、趙雲の心を強く打った。
そして、自分という客人の前で、あえて娘の真意を問うた、あの深謀遠慮。全てを見極めた上で、「あとは父娘の話だ」と自分を下がらせたあの采配には、理不尽さなど微塵も感じなかった。あれは、まず父と娘が向き合うべき、聖なる時間なのだと、深く納得できたのだ。
権力者は家族すらも駒として扱う。そんな光景を嫌というほど見てきた趙雲にとって、呂布の振る舞いは衝撃であった。
この鬼神とまで呼ばれる男の力の根源は、あるいは、ただひたすらに、あの娘たちを守りたいという、純粋な父の想いにあるのかもしれない。
そして、飛燕。
彼の脳裏で、旅の道中での彼女の姿が、鮮やかに色づき始めた。
まず蘇るのは、あの嵐のような槍。理屈を超えた天賦の才、そして何者にも屈しない誇り高い覇気。武人として、あれほどまでに魂を焦がされた相手は、生まれて初めてだった。
その上で、村を救った戦場では、返血を浴びながらもなお、まるで天女のように気高く美しかった。
渓流での決闘では、汗に濡れた黒髪が白い頬に張り付き、その姿は息を呑むほどに艶やかだった。
そして今、父の前で必死に強がりながらも、その頬を林檎のように真っ赤に染めていた、あの可憐な素顔。
荒々しい武神と、か弱い少女。そのあまりにも大きな振れ幅が、彼の心をどうしようもなく掻き乱す。
(守られているのだな、あのおなごは。絶対的な力を持つ父に)
その光景が、なぜか趙雲の胸を締め付けた。それは羨望か、あるいは…。
(この父娘を、この国を試すなど、何という思い上がりであったか…)
自らの傲慢さを、彼は恥じた。
この父娘の絆の深さ、そしてこの国が持つ温かさは、もはや自分が値踏みできるような次元にはない。
客将としてあてがわれた部屋に戻り、一人、窓の外を見つめる。
これから、あの父と娘は、二人きりで何を語り合うのだろうか。
そして、その後、自分は再びあの鬼神の前に立ち、何を問われるのだろうか。
仕えるべき光を探す旅だった。
だが、その光は、自分が想像していた以上に、巨大で、そして温かいものだったのかもしれない。
趙雲の心は、畏敬と、戸惑いと、そして、もう否定のしようもない、彼女への熱い想いの間で、大きく揺れ動いていた。
彼は、ただ静かに、自らの運命が決まるであろう、次なる刻を待つのであった。