第五十三話:最初の対面
第五十三話:最初の対面
侍従に導かれ、趙雲が通されたのは、謁見の間ではなかった。
晋陽城の奥深く、来客をもてなすための、調度品が整えられた静かな一室。窓の外には、手入れの行き届いた中庭が、秋の柔らかな日差しを浴びていた。
だが、その穏やかな風景とは裏腹に、部屋の空気は、まるで刃の上を歩くかのように張り詰めていた。
部屋の中央、上座には、深紅の礼装に身を包んだ一人の巨漢が、どっしりと腰を下ろしていた。
大将軍・呂布。
ただ、そこに座しているだけで、部屋の空間そのものが、彼の圧倒的な覇気によって歪んでいるかのような錯覚を覚える。趙雲は、これまで出会った誰とも違う、まさしく鬼神そのものの存在感を前に、ゴクリと息を呑んだ。その圧倒的な威圧を前にして、ごく自然に、その頭は垂れていた。
「…常山の趙子龍とやら、面を上げよ」
呂布の声は、静かだった。だが、その一言が、部屋の空気を震わせ、趙雲の鼓膜を直接揺さぶる。
趙雲は、ゆっくりと顔を上げた。
射るような視線が、交錯する。
呂布の瞳。それは、ただの君主のものではなかった。数多の死線を越え、人の世の理を超えた場所に立つ者の瞳。その奥には、趙雲の魂の真贋を、根こそぎ見定めようとするかのような、冷徹な光が宿っていた。
だが、趙雲もまた、その視線を逸らさなかった。
彼の瞳は、凪いだ湖面のように静かだった。いかなる覇気も、その湖面を揺るがすことはできない。
(ほう…)
呂布の口元に、初めて、かすかな笑みが浮かんだ。
(この俺の気を前にして、平然としておるか。面白い)
長い、息の詰まるような沈黙。
その静寂を破ったのは、呂布の、あまりにも意外な一言だった。
「…娘が、世話になったな」
それは、君主としての言葉ではなかった。
ただ、娘の帰りを待っていた、一人の父親としての、不器用な礼の言葉。
その、予想だにしなかった言葉に、趙雲は一瞬、戸惑った。
呂布は、そんな彼の様子には構わず、背後の侍従に静かに命じた。
「…飛燕を呼べ」
(この場でか…?)
呂布の真意を測りかねたが、趙雲は動じることなく、ただ静かに次の展開を待った。父と娘の対面という、極めて私的な場。本来であれば、客人は速やかに退室を促されるはずだ。だが、呂布はあえて自分をこの場に留まらせようとしている。その意図を、彼は静かに見極めようとしていた。
やがて、覚悟を決めたような、しかし硬い表情の飛燕が、侍従に促されて部屋に入ってきた。父と趙雲が対峙するその張り詰めた空気を感じ取り、彼女は父の斜め後ろへと進み出ると、息を殺すように控えた。その顔からは血の気が引き、固く握りしめられた拳が、膝の上でかすかに震えている。
(やはり、無断で城を出たことを気に病んでおられるのか…)
先程の姉妹との会話で、彼女が許しを得ず旅に出たことは趙雲も知っていた。このままでは、父である呂布の厳しい問い詰めが始まるのは火を見るより明らかだ。
その、あまりに痛々しい姿を見かねて、そして、これから始まるであろう父の叱責から少しでも彼女を庇うべく、趙雲は先に口を開いた。
彼は、深く一礼した。
「いえ…。姫君の武、まこと見事なものでした。某が助太刀するまでもなかったかと」
「ふん。口のうまい男よ」
呂布は鼻で笑ったが、その表情は少しだけ和らいでいた。
(面白い…)呂布の慧眼は、趙雲の言葉が単なる礼儀ではなく、父の叱責を予期して娘を庇うための、咄嗟の気遣いであることを見抜いていた。礼を逸する危険を冒してまで、この男は娘を気にかけている。呂布は表情には出さなかったが、その心は父親として、確かに安堵していた。
彼は、視線を、娘へと移す。その瞳の奥には、趙雲の反応を窺うかのような、鋭い光が宿っていた。
「飛燕」
「は、はい…!」
「お前は、この男に負けたそうだな」
その、あまりにも直接的な問いに、飛燕の顔が、一気に赤く染まった。
呂布はその変化を見逃さなかった。武人としての敗北への悔しさならば、その顔は蒼白になるか、あるいは怒りに赤黒くなるはずだ。だが、今目の前にあるのは、想い人の前で己の未熟さを指摘された、ただの少女の恥じらい。そのあまりに分かりやすい反応に、呂布は娘の恋心を確信した。
「そ、それは…! 経験の差です! もう一度やれば、次は必ず…!」
「言い訳は聞いとらん」
呂布は、ぴしゃりと言った。だが、その声に怒りはなかった。
娘の心根は、もう分かった。あとは、この男がその想いに応えるに足る器量の持ち主かどうかだ。
「負けは負けだ。だが、お前は生まれて初めて、己の全てをぶつけてなお届かぬ相手と出会った。その意味を、よく考えよ。―――さて、趙子龍」
呂布の視線が、再び趙雲を射抜いた。その問い詰めの全てが、実は自分への布石であったことを、趙雲は悟った。
「お前の話は、後でゆっくりと聞こう。まずは、この馬鹿娘と、話がある」
それは、趙雲に対する、一時的な退席命令であった。
趙雲は、その意図を悟り、静かに、そして深く一礼すると、侍従に導かれて部屋を辞した。
広間に残されたのは、父と娘、ただ二人。
これから始まるであろう、本当の対話。
飛燕は、ごくりと唾を飲み込み、父の次の言葉を、固唾を飲んで待っていた。