幕間:白龍の覚悟
幕間:白龍の覚悟
晋陽城の、長く、静かな回廊を、趙雲は一歩一歩、踏みしめるように進んでいた。
侍従に導かれる先にあるのは、この并州の主であり、漢の大将軍たる飛将・呂奉先が待つ場所。
磨き上げられた床に、自らの白銀の鎧が映り込む。その姿は、常と変わらぬはずなのに、今の趙雲には、まるで知らない誰かを見ているかのように、どこか落ち着かなかった。
胸の内で、熱いものと、冷たいものが、激しくせめぎ合っている。
熱いものは、先程まで共にいた、あの少女への想いだった。
飛燕。
彼女の姉妹たちに囲まれ、頬を染めてはにかむ姿。戦場で嵐のように猛り狂っていた姿とは、あまりにも違う、あまりにも可憐な素顔。
あの温かい家族の輪。
仕えるべき光を探す旅は、いつしか、守るべき光を見出す旅へと、その意味を変えようとしていた。
(あの一家を守りたい。あの光を、この槍で――)
そう願ってしまった自分に、趙雲は戸惑っていた。これは、己が追い求めてきた「義」なのか、それとも、ただの私情なのか。
そして、冷たいものは、武人としての、これまでの記憶だった。
脳裏に、かつての主君たちの顔が蘇る。
旧主・公孫瓚。あの人もまた、初めは民のために蜂起し、白馬を駆って悪を討つ、気高い理想を掲げていた。だが、河北の覇権を賭けた袁紹との長きにわたる戦の中で、その心は猜疑心という名の毒に蝕まれ、自滅していった。理想だけでは、人は救えない。その無力さを、趙雲は痛いほど知っていた。
袁紹。名門の出でありながら、その器はあまりに小さい。民よりも自らの面子を優先し、忠臣の諫言よりも、耳障りの良い追従を好む。あれは、真の君主ではない。
そして――玄徳殿。
趙雲の心が、ふと熱を帯びる。
磐河の地で初めて会った時、あの人の仁徳に触れ、確かに心は震えた。敗者の側にありながらも、誰一人見捨てぬその姿。この槍を捧げるのは、この御方しかいないと、一度は本気で考えた。
だが、あの頃の玄徳殿は、あまりに小勢で、あまりに孤立しておられた。再会を誓い、兄と慕うことを許されたが、乱世の濁流は、二人が再び交わることをいまだ許さずにいる。
(義だけでは、民は救えぬ。だが力だけでは、覇へと堕ちる)
趙雲は胸中で、静かに呟く。
ならばこそ、自分は今、この并州に来ねばならなかったのだ。
ここには、天下無双の「力」を誇る飛将軍がいる。そして民は、その「力」に怯えるのではなく、心から慕っている。
もしその力が真に義のために振われているのなら――それは、仁と力を併せ持つ、理想の主君となり得る。
謁見の間は、もう目の前だった。
趙雲は、静かに足を止め、一度だけ、目を閉じた。
そして、自らの魂に、最後の問いを投げかける。
お前は、何のために、この扉を開けるのか、と。
答えは、すでに出ていた。
もはや、各地の諸侯を渡り歩く浪人として、呂布を「値踏み」するつもりはなかった。
(俺は、確かめねばならない)
(あの少女が、あれほどまでに誇りに思う父親とは、一体どれほどの器量を持つ男なのか)
(そして、あの温かい家族を守るに値する男であるかどうかを、この趙子龍の目で、魂で、見極めねばならん)
それは、もはや仕官活動ではない。
自らの未来の全てを、そして、心惹かれた少女の未来をも懸けた、一人の男としての、覚悟の問いであった。
目を開けた時、彼の瞳には、もう迷いはなかった。
忠誠を誓うべき主君を、そして、生涯をかけて守り抜くべき光を、この手で掴み取るために。
白龍は、鬼神が待つ場所へと、その最後の一歩を、踏み出した。