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第五十二話ノ二:家族の輪

第五十二話ノ二:家族の輪

張遼に導かれ、趙雲は晋陽城の奥深くへと足を踏み入れた。

磨き上げられた床は窓から差し込む秋の光を静かに反射し、回廊を行き交う侍女たちの動きは一糸乱れず、それでいて穏やかだ。華美な装飾はない。だが、この城の隅々にまで、確かな秩序と、そこに住まう者の誇りが満ちているのを、趙雲は肌で感じていた。


彼の心は、未だかつてないほどに張り詰めていた。

隣を歩く飛燕との間に生まれた、身分の差という見えざる壁。そして、この城の主、呂奉先との対面が間近に迫っているという、武人としての緊張感。


ふと、飛燕が張遼の袖を引き、小声で問い質しているのが聞こえた。

「…張遼のおじ様。なぜ、あのような刻限に城門におられたのです。それに、子龍殿のことまでご存知とは。あまりに都合が良すぎます」

「はっはっは、何を仰いますやら、姫様。某はたまたま巡察から戻っただけ。趙子龍殿のお噂は、あまりに見事な白馬でしたので、遠目からでも分かりましたわい」

張遼は人の良い笑みでしらを切るが、その目が全く笑っていないことに飛燕は気づいていた。


(…やはり、何かある)


やがて、張遼が一つの大きな広間の前で足を止め、重い扉を静かに押し開いた。

「姫様がた、飛燕様がご帰還なされましたぞ」


その声に応えるように、広間の奥から、三つの影が駆け寄ってきた。

「飛燕!」

最初に響いたのは、凛とした、しかし安堵に満ちた声だった。

年の頃は飛燕よりも少し上だろうか。亜麻色の髪を品良く結い上げたその女性は、妹の姿を見るなり、その両肩を掴んだ。

「心配しましたよ、飛燕。無茶ばかりして…ですが、ご無事で、本当に良かった…」

優しく叱るその瞳は、紛れもなく姉のものであった。長女、暁だ。


「お姉様!」

もう一人、さらに年若い少女が涙を浮かべて飛燕に抱きついた。その姿は、まるで嵐の中から帰ってきた姉を慕う、か弱い雛鳥のよう。三女、華。

「もう、どこかへ行ってしまわれるのかと…うっ…ううっ…」

「なっ…泣かないでよ、華! 私は大丈夫だって言ったでしょ!」

飛燕は照れくさそうに妹の頭を撫でながらも、その顔には心からの安堵の色が浮かんでいた。


戦場で見せた嵐のような覇気はどこへやら。そこにいたのは、ただ姉妹との再会を喜ぶ、年頃の少女の素顔だった。


その時、飛燕はハッと我に返った。趙雲が、固まったまま自分たちのやり取りを興味深そうに見ていることに気づいたのだ。

彼の、どこか面白がるような、温かい眼差し。その視線に射抜かれ、飛燕は全身の血が沸騰するかのような熱を感じた。

「な、何を呆けて見ているのよ!」

頬を林檎のように真っ赤に染め、照れ隠しに声を荒らげる。


その剣幕に、趙雲は少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに穏やかに微笑むと、悪びれもせずに答えた。

「いや。姉妹とは、良いものだな、と」

その、あまりにも朴訥で真っ直ぐな感想に、飛燕は完全に毒気を抜かれてしまった。


「そ、そう…かしら…」

「ああ。某には兄弟がおらぬゆえ、羨ましく思う」

趙雲は、心からの言葉を続ける。その瞳には一点の曇りもない。

「それに、貴女の槍の激しさは、あるいはこの温かきものを守るためにこそあるのかもしれぬな」


その、全てを見透かすような、しかしどこまでも優しい言葉。

飛燕は、もはや何も言い返せなかった。ただ俯いて、耳まで真っ赤に染めるのが精一杯だった。

その初々しい姿に、暁と華は顔を見合わせ、くすくすと笑みをこぼす。張り詰めていた広間の空気が、一瞬で温かいものへと変わった。


彼が知る権力者の家族とは、あまりにも違う。

そこにあるのは、何の打算もない純粋な家族の愛情。温かい絆。

彼の、常に冷静沈着な魂が、その温もりにじんわりと溶かされていくのを感じた。


「某は、暁様の夫にて、殿の参謀を務めます徐庶と申します。貴殿が、妹君である飛燕様をお連れくださった趙雲殿ですな?」

静かな声に、趙雲はハッと我に返った。

暁の隣に立つ一人の青年が、穏やかな、しかし全てを見透かすような瞳でこちらを見ていた。

「はっ。某は、趙雲、字を子龍と申します。道中、偶然にも姫君と…」

「妹を、無事お連れいただき、心より感謝いたします、趙雲殿」

暁が、夫の言葉を引き継ぐように、深く一礼した。その瞳は趙雲の器量を冷静に見定めている。だが、そこに敵意はなく、ただ純粋な知的好奇心と、妹を救ってくれたことへの感謝の色だけが浮かんでいた。

趙雲の曇りのない受け答えに、二人はこの男がただの武人ではないことを瞬時に悟り、感嘆の表情を浮かべた。


「あの…旅のお疲れが出ませんように」

今度は、華がおずおずと趙雲の前にお茶を差し出した。その小さな手に乗せられた杯から、湯気と共に甘草の優しい香りが立ち上る。

その、何の裏もない純粋な優しさが、趙雲の心の最後の緊張の糸を、ふつりと断-ち切った。

聡明な長姉夫婦と、心優しい三女。

そして、その中心で、少し照れくさそうに、しかし誇らしげにしている、誇り高き次女。

この家族の輪の中にいると、自分が長年探し求めていた「温もり」がここにあるのではないかと、そう感じずにはいられなかった。

仕えるべき主君を探す旅だったはずが、いつの間にか帰るべき「家」を探していたのかもしれない。

趙雲の胸に、これまで感じたことのない熱いものが込み上げてきた。

この家族の、一員となりたい。

この温かい光を、この槍で守り抜きたい。

そう、無意識に願ってしまっていた。


その時だった。

広間の入り口から一人の侍従が現れ、静かに告げた。

「趙雲様。殿が、お呼びでございます」

ついに来たか。

広間の空気が、一瞬で張り詰める。

姉妹たちの顔にも、緊張の色が浮かんだ。


趙雲は、心を決めた。

彼は三人の姉妹に深く一礼すると、静かに立ち上がった。

その瞳には、もはや戸惑いの色はない。

この温かい家族の主、この并州の父、呂奉先という男に、自らの魂の全てをぶつける覚悟の光が、北の夜空に輝く星のように、確かに宿っていた。

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