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幕間:父の深慮

幕間:父の深慮

夜明け前の晋陽城は、深い静寂と、凍てつくような冷気に包まれていた。

城壁の向こう、東の空がわずかに白み始め、星々の輝きがその勢いを失っていく。

だが、城主である呂布の私室には、まだ煌々と灯りが灯っていた。


彼は、一人、窓辺に立ち、腕を組みながら、眼下に広がる眠れる都を見下ろしていた。

城下の静けさとは裏腹に、彼の心の内は穏やかではなかった。

「…あの馬鹿娘め、今頃、どこで何をしておるやら」

誰に言うでもなく呟く。その声には、君主としての厳しさではなく、ただ娘の身を案じる、一人の父親の不器用な憂いが滲んでいた。


飛燕。三人の娘たちの中で、最も自分に似た魂を持つ娘。

その槍は、確かに天賦の才に溢れている。だが、あまりにも激しすぎる。受け止める者がいなければ、いつかその炎は、彼女自身をも焼き尽くしかねない。

その危うさを、父として、そして同じ武人として、痛いほど理解していた。

だからこそ、あえて突き放した。籠の中では、本当の強さは学べぬと知っていたからだ。

だが、それでも心は揺れる。あの決断は、本当に正しかったのか、と。

影の部隊からの報せを待つ夜は、やけに長く感じられた。


―――それから、数日が過ぎた朝のことである。


呂布が朝餉を終え、政務に取り掛かろうとしていた時、背後で静かに扉が開く音がした。

振り返ると、そこには寡黙な腹心・高順が、一人の若い隊長を伴って立っていた。隊長の鎧には、長旅の埃が深く染みついている。


「…戻ったか、高順」

「はっ。殿、此度の儀、この者より直接お聞き届けいただきたく」

高順はそう言って一歩下がり、伴ってきた隊長――影の部隊の隊長、李鉄――を呂布の前へと促した。


李鉄は、主君の前に進み出ると、緊張に顔を強張らせながらも、深く膝をついた。

「申せ」

呂布の声は、低く、重かった。


李鉄は報告を始めた。

「はっ…! 先日、飛燕様は、并州北部の辺境の村にて、呼延虎と名乗る山賊の頭目一味と交戦されました」

呂布の眉が、わずかにひそめられた。

「呼延虎…黒山の張燕の残党か。…それで」

「姫様は鬼神の如き武で雑兵を蹴散らしましたが、頭目の老獪な戦術の前に、一時は窮地に…」

「なに!」

思わず、呂布の声が鋭くなる。

だが、高順が静かに前に出て、李鉄の言葉を補った。「ご安心を。姫様に、お怪我はございませぬ」その一言で、呂布の張り詰めた空気がわずかに緩んだ。


李鉄は、主君の気迫に改めて身を固くしながらも、言葉を続けた。

「そこに、常山より来たと申す、趙雲、字を子龍と名乗る白馬の若武者が介入。姫様と共闘し、賊を討伐いたしました」

「趙…子龍…」呂布は、その聞き慣れぬ名を反芻した。「何者だ、その男は」

「はっ。その後、姫様と趙雲は、日没と共に近くの渓流へ。そこで、一騎討ちを…」

その報告に、呂布の表情が初めて驚愕に変わった。

「あの飛燕が、初対面の男とそのような手合わせを…」


彼の声には、父親としての戸惑いと、それ以上に、武人としての抑えきれない好奇心が混じっていた。彼は玉座から身を乗り出すようにして、李鉄に命じた。

「…その戦の様子、詳しく申せ。一言一句、違えるな」


その厳しくも熱を帯びた眼差しに、李鉄はゴクリと唾を飲んだ。彼は、あの神々の戯れのような光景を思い出し、畏れと興奮で声がわずかに震えるのを自覚した。


「はっ…! その戦いは、もはや人の域を超えておりました…!」

李鉄は、堰を切ったように語り始めた。

「姫様の槍が荒れ狂う嵐ならば、趙雲の槍は全てを受け流す大河。二つの槍が交わるたびに、鉄の轟音と火花が散り、我らでは近づくことすら叶わぬほどの『気』が満ちておりました。やがて、二人の渾身の一撃がぶつかり合った際には、中州の岩盤そのものが砕け散り…!」


その、にわかには信じがたい報告に、呂布は絶句した。

自分の血を、最も色濃く受け継いだあの娘が。并州広しといえども、張遼ですら本気で相手をせねばならぬほどの、あの娘が、そこまでの戦いを演じたというのか。

そして、その相手となった趙雲という男は、一体どれほどの腕なのだ。

武人としての血が、にわかに騒ぎ出す。


李鉄は、決定的な一言を放った。

「ですが、勝負を制したのは、趙雲でありました」

「―――なに…飛燕が、負けた…だと?」


呂布の衝撃は、先程とは比べ物にならないほど大きかった。

それは父親としての、僅かな嫉妬にも似ていた。自慢の娘を打ち負かした、見知らぬ男への、複雑な対抗心。


だが、李鉄の報告は、まだ終わらない。

「決着の刹那、我らは、万が一に備え趙雲に向け殺気を放ちました。ですが…」

李鉄の声に、畏敬とも戦慄ともとれる響きが混じった。

「…趙雲は、その殺気を完全に察知した上で、あえて槍を止め、姫様に一切の危害を加えませんでした。その武徳、計り知れませぬ」

「……ほう」

呂布の表情から、驚きと嫉妬が消えた。

代わりに浮かんだのは、深い、深い思索の色だった。

長い、息の詰まるような沈黙が部屋を支配する。

彼の頭脳は、李鉄がもたらした生々しい情報を恐るべき速度で組み立て、趙雲という男の、巨大な全体像を構築していた。

公孫瓚滅亡後、袁紹に仕えず義を求めて故郷に隠棲していた気高き士。

并州の善政の噂を聞き、自らの魂を捧げる場所を求めてこの地へ来た。

偶然出会った我が娘の、あの嵐のような槍を真正面から受け止めるほどの武勇。

そして、殺気を察知しながらも無用な殺生を避け、敗者への敬意を忘れない冷静さと武徳。


「…面白い」

呂布は、今度は声に出して呟いた。その口元には、獰猛な笑みが浮かんでいる。

「俺が見つけられなかった『風』が、自ら燕の前に現れたというのか…」

彼は高順と李鉄に向き直った。

「ご苦労であった。下がって休め」

「はっ」


二人が部屋を辞した後、呂布は一人、再び窓辺に立った。

その瞳には、もう憂いの色はない。

「俺の娘と互角以上に渡り合った男か。そして、その上でこの俺の器を値踏みしに来る、と。良い度胸だ。気に入った」

彼は、伝令を呼び、張遼の宿舎へと向かわせた。

「俺の器を値踏みしに来るというのなら、こちらも最高の舞台で迎えてやらねばな」

張遼への命令は、短く、しかし呂布の深謀遠慮が込められたものだった。

「旧知のように、しかし威厳をもって出迎えよ。だが、俺からの指示であることは、決して悟らせるな」

伝令が去っていく。

呂布は、不敵な笑みを浮かべた。

その視線の先、澄み切った秋の空を、黒い燕と、白い龍が、寄り添うように楽しげに舞っている幻影が見えたような気がした。


「飛燕よ…」

彼は、誰に言うでもなく呟いた。

「お前は、とんでもない『風』を、この并州に連れて帰ってきたようだな」

だが、その声には憂いの響きではなく、むしろ娘が見つけた運命の相手への、かすかな期待と、父親としてのどうしようもない誇らしさが滲んでいた。

彼は、来るべき若き龍との対面を、静かに、そして楽しみに、待ち構えるのであった。

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