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第五十一話:夜明けの問答

第五十一話:夜明けの問答

決闘の熱気が冷め、月が冴え冴えと渓流を照らす頃。

二人は村はずれの井戸のそばで、言葉少なに向かい合っていた。

互いの身体は汗ばみ、冷たい夜風が火照った肌に心地よかった。肩で荒い息を繰り返しながらも、その視線は、まるで磁石のように、互いから片時も離れることがなかった。


その沈黙を、先に破ったのは趙雲だった。

彼は改めて飛燕に向き直り、武人としての純粋な敬意を込めて、深く一礼した。

「―――飛燕殿。先程の槍、まこと見事であった。某がこれまで見てきた、いかなる猛将の槍よりも荒々しく、力強く、そして何よりも生命力に満ち溢れていた。魂が震えるとは、ああいうことを言うのであろうな」


手放しの、一点の曇りもない賞賛。

自分を女としてではなく、まず一人の武人として対等に見てくれている。その事実が、飛燕の誇り高い心を心地よくくすぐった。彼女は照れくささを隠すように、そっぽを向いてぶっきらぼうに答えた。

「…子龍こそ。あの槍、なんなのよ。まるで水が流れるように無駄がなくて、それでいて岩をも砕くようだった。あんな槍、見たことないわ…」


「我が槍は、ただ理を重ねただけのもの。だが、貴女の槍は理を超えた場所にある。まるで、嵐そのもののようだ」

趙雲は穏やかに微笑んだ。その端正な顔立ちが月明かりの下で玉のように美しく見え、飛燕は思わず心臓が大きく跳ねるのを感じた。


高鳴る鼓動を悟られまいと、彼女はわざと挑戦的な視線を返す。

「褒め言葉はもういいわ。それより、不思議でならないの。それほどの腕を持ちながら、なぜ誰にも仕えず、一人でいるの? まさか、あんたのその槍に見合うだけの主君が、この天下にはいないとでも言うつもり?」


その問いは、純粋な疑問であると同時に、相手の器量を測ろうとする、気高い姫君らしい鋭さを含んでいた。趙雲は苦笑しつつも、その真っ直ぐな瞳に好感を覚えた。

「…そうかもしれぬな。某は、自らが信じる『義』の形に、少しばかり、こだわりすぎるのかもしれん」

彼は遠い故郷の空を思い浮かべるように、視線を上げた。

「某には、仕えるべき主君も帰るべき場所もない。ただ、この槍に宿した『義』だけが、某が進むべき道を照らす唯一の道標なのだ。悪を見て見過ごすことは、この槍が許さぬ。ただ、それだけのことよ」


その言葉に、飛燕は胸を突かれた。

自分と同じだ。

この男もまた、自らの力を燃やすべき場所を探して、独り、この広い世を彷徨っている。

二人の間に、静かな沈黙が落ちた。だが、それは気まずいものではない。互いの孤独を、言葉なくして理解し合った、確かな共感がそこにはあった。


「…ならば」

趙雲の声が、その静寂を破った。

「某は、これから并州の都、晋陽へ向かう。この旅の目的は、ただ一つ。并州の主、呂布将軍に会うことだ」

「呂布…」

父の名が彼の口から出た瞬間、飛燕の表情がわずかに強張った。

「そうだ」趙雲は真剣な眼差しで続けた。「噂に聞く『楽土』が真か、そして将軍の『義』が本物か、この趙子龍の目で、しかと見極めたい。もし、あの御方こそが我が槍を捧げるに値する君主であるならば…」


その言葉を聞き、飛燕は咄嗟に決意していた。

この男を、このまま行かせるわけにはいかない。

父が、この男をどう見るのか。

そして、この男が、父をどう見るのか。

その、二つの魂がぶつかり合う瞬間を、この目で見届けなければならない。


「…ふん、面白そうじゃない」

彼女は悪戯っぽく笑ってみせた。その表情は、先程までの少女のそれではなく、父譲りの不敵な猛将の顔つきに戻っていた。

「私も、その呂布将軍とやらに少し興味が湧いてきたわ。并州の道案内くらいは、してあげてもよくってよ」


趙雲は、彼女の言葉の裏にある気遣いとプライドを感じ取り、穏やかに微笑み返した。

「それは心強い。では、道中のこと、よろしくお頼み申す」


夜が明け、東の空が白み始める。

二人は村人たちに別れを告げると、二頭の駿馬を並べ、晋陽へと向かう道を歩き出した。

白き龍と、黒き燕。

二つの孤高の魂の旅が、この北の地で、静かに始まった。

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