第五十ノ二話:魂の対話
第五十ノ二話:魂の対話
夕陽が山の稜線に沈みきり、渓流は最後の茜色を名残惜しそうに映していた。大地のざわめきすら止み、天地がただ二人のために呼吸を潜めたかのようだ。
趙雲の槍の柄が、石突側を先頭に、薙ぎ払うようにして無防備となった飛燕の首筋を捉えようとしていた。
その刹那――時は引き延ばされ、世界がきしむように遅くなる。
飛燕の瞳には迫り来る黒い一閃が映り、その距離が紙一重もないほどに縮んでいることを悟った。
(……届かぬ)
その直感は、生まれて初めて味わう、紛れもない「完全な敗北」の宣告だった。
呼延虎との戦いは、ただ泥臭く厄介なだけで、負ける気など微塵もしなかった。だが、これは違う。渾身の技を尽くし、魂の全てをぶつけ合った上で、わずかに、しかし絶対的に届かない。
彼女はそれを知覚しながらも、心は不思議なほどの静寂に包まれていた。恐怖はない。
(この人は……私を傷つけない)
その確信が、彼女の身体から抵抗する力を奪った。
趙雲の槍は、彼女の白い肌に触れる寸前でぴたりと静止していた。
勝敗は決した。だが、彼が槍を止めたのは、それだけが理由ではなかった。
彼の、常人を超えた五感が、背後の森から放たれる数条の研ぎ澄まされた殺気を明確に捉えていたのだ。弓。それも、並の腕ではない。
(ここで彼女に触れれば、背後の者たちが矢を放つ。無用な争いを避けねばならぬ)
彼は槍を止めたまま、その視線を動かすことなく、背後の森に向かって静かに一度だけ頷いてみせた。
(無用な争いは不要だ)と。
その武徳を示し終えると、彼はゆっくりと槍を引き、飛燕から距離を取った。
その瞬間、飛燕の全身から張り詰めていた覇気がふっと抜け落ちた。
渓流に静寂が戻る。川のせせらぎ、虫の声、遠くで飛ぶ鳥の羽音――そのすべてが二人の間を満たす。戦いの熱が嘘のように引き、残されたのは二つの激しい鼓動だけだった。
飛燕はその場に膝をついた。荒い息を吐き、額から汗を滴らせながら、胸の奥に新たな感情を抱いていた。
(これが……敗北)
生まれて初めて味わう感覚。悔しさもある。だがそれ以上に、胸を突き抜けるのは歓喜に近い高揚だった。自分のすべてを受け止め、なお超えていった存在に出会えた。そのことが、彼女にとっては何よりの救いであり、歓びであった。
膝を濡らす渓流の冷たさが、かえって心を澄ませる。飛燕は顔を上げ、岸辺に静かに立つ趙雲を見つめた。
趙雲もまた、彼女の姿を見つめていた。彼の心に去来していたのは、勝者の昂揚ではない。
(なんと気高い魂だ…)
彼女の槍には天賦の才があった。澄み切った魂がそのまま武へと昇華されていた。もし、これが幾度もの修羅場を潜り抜けていたならば――勝敗は逆であったかもしれぬ。武を以て相手を圧倒することは容易い。だが、これほどの魂の輝きを、未熟なまま折ってしまうことは、あまりにも罪深い。
「―――見事な槍であった」
趙雲は静かに口を開いた。短い言葉だが、その声音には一片の偽りもなく、敗者に対する最大限の敬意が込められていた。
飛燕の胸に熱が走った。頬に血がのぼるのを感じ、思わず視線を逸らしそうになる。だが、武人としての矜持が彼女を踏みとどまらせた。
「……あんたの槍こそ。私には、到底届かなかった」
それは敗北の告白だった。だが、声には屈辱の影はなく、むしろ晴れやかな響きが宿っていた。彼女の中で「敗れる」ということが、新たな意味を持ち始めていたからだ。
趙雲は微笑を浮かべ、ゆるやかに首を振った。
「否。勝敗を分けたのは経験の差にすぎぬ。そなたの才は天の与えしもの。もし幾度もの戦場を経ておれば、某の槍も危うかったであろう」
その真摯な言葉に、飛燕は心を揺さぶられた。勝者の余裕ではない。真にそう思っているのだと、魂が告げていた。
二人の視線が重なる。夕闇が二人を包み、言葉以上のものがその眼差しの中にあった。まるで長き旅路の果てに、ようやく出会うべき者と巡り合ったかのようだった。
飛燕の胸は、歓喜に叫んでいた。
(いた…! 私の槍を、魂ごと受け止めてくれる人が、本当にいたんだ!)
趙雲の心は、静かなる衝撃に揺れていた。
(我が槍は、常に孤独であった。だが、この嵐のような魂は…! 我が槍と共鳴し、その理を、熱く揺さぶる…!)
二人は言葉を交わすことなく、ただ互いの存在を確かめ合うように、長い間、見つめ合っていた。
やがて、どちらからともなく頷き合うと、静かに中州を後にし、村へと戻っていく。
まだ、互いの素性を知らない。だが、それで良かった。
今宵、二つの魂は、確かに一つになったのだから。