幕間:影の報告
幕間:影の報告
秋風が、血と土埃の匂いを運び去り、代わりに草木の冷たい香りを運んでくる。
渓流を見下ろす森の奥深く。俺たち――高順将軍麾下の精鋭五名は、木の枝や岩陰に身を隠し、息を殺して眼下の光景を見守っていた。
隊長である俺の名は、李鉄。多くを語らぬ主君に鍛え上げられたこの身は、感情を殺し、ただ命令のみを遂行するための、一つの道具であると自負してきた。
だが、今、俺の心は、主君から与えられた命令と、兵としての忠義の間で、激しく揺れ動いていた。
脳裏に、半刻ほど前の光景が焼き付いて離れない。
山賊との戦い。
飛燕様は、確かに圧倒的であった。父君である呂布将軍の武を、まざまざと受け継いだその槍捌きは、もはや人の域を超えている。
だが、あの頭目の男は違った。呼延虎と名乗ったか。あの男の戦い方は、武ではなく、ただ生き残るための獣のそれだった。
姫様の、あまりにも真っ直ぐすぎる槍筋が老獪な罠に絡め取られ、体力を削られていく。そして、ついに生まれた一瞬の隙。
呼延虎の大刀が、がら空きになった姫様の白い胴体へと吸い込まれていくのが、ゆっくりと見えた。
「―――っ!」
俺は思わず腰を浮かせた。背にした弓の弦に、指がかかる。
主君の命令は、絶対だ。
『姫君の影となりて、その旅路を見守れ。ただし、命に関わる時以外、決して手を出すな』
だが、今、この瞬間こそが、その「命に関わる時」ではないのか!
「待て、隊長」
隣に潜む副官の、氷のように冷静な声が俺の激情に鎖をかけた。
「まだだ。姫様を信じろ」
唇を噛み締める。俺の判断が、姫様の命を左右する。その重圧に、背中を冷たい汗が伝った。
だが、俺たちの葛藤を嘲笑うかのように、戦場に白い風が舞った。
あの、白馬の若武者。趙雲と名乗った男。
彼が介入し、姫様が窮地を脱した時、俺の心にあったのは安堵よりも、むしろ純粋な驚愕であった。
そして今、俺たちは再び同じ問いを突きつけられている。
眼下の渓流で繰り広げられているのは、もはや戦ではない。神々の戯れだ。
姫様の槍が荒れ狂う嵐ならば、あの男の槍は全てを受け流す大河。
石突と石突がぶつかり合う轟音は雷鳴となって俺たちの鼓膜を震わせ、そのあまりの気の応酬に、肌が粟立ち、呼吸すら苦しくなる。
「なんだ、あれは…」
若い兵士の一人が、畏怖に満ちた声で呟いた。
「人間、なのか…?」
答えられる者など、この場にはいなかった。
俺たちは并州軍の中でも選りすぐりの精鋭であるという誇りがある。だが、あの二人の前では、俺たちの武など赤子の戯れに等しい。
もし、あの二人が本気で殺し合えば、この渓谷一帯が更地と化すだろう。
それほどの、人知を超えた力が、今、眼下でぶつかり合っている。
隊長として、俺は理解していた。
姫様は、成長されたのだ。父君の覇気を、完全に自らのものとされている。
そして、あの趙雲という男。あの男は姫様の嵐を真正面から受け止め、あまつさえ、その力をいなしている。
計り知れない。あの男の実力は、一体どこに底があるのか。
介入など、できるはずもなかった。
俺たちが今、あの神域に足を踏み入れれば、その余波だけで塵と化すだろう。
ただ、見守ることしかできない。
無力感と、それ以上の、荘厳なまでの感動が俺の心を支配していた。
やがて、戦いは最高潮に達した。
二人の渾身の一撃が、中州の岩盤そのものを砕け散らせる。
凄まじい水飛沫が上がり、二人の姿が一瞬、見えなくなった。
そして、水飛沫が晴れた時。
俺は、見た。
砕けた岩盤でわずかに体勢を崩した姫様。その無防備な首筋に、趙雲の槍の石突が薙ぎ払うようにして迫るのを。
速い。あまりにも速すぎる。
あれは、避けられない。
「―――構えろ」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
もう、迷いはなかった。
これが、主君が言われた「命に関わる時」だ。
俺の命令に応え、四人の部下が音もなく弓を引き絞る。
五本の矢の切っ先が、寸分の狂いもなく趙雲の背中の急所へと向けられた。
俺たちが放つ研ぎ澄まされた殺気が、森の静寂を切り裂き、彼の背中に突き刺さる。
放て、と叫ぶ寸前だった。
趙雲の動きが、ぴたりと止まった。
石突は、姫君の白い肌に触れる、ほんの寸前で静止している。
そして。
彼は、ゆっくりと、こちらを振り返ることなく、背後の森――俺たちが潜むこの闇に向かって、静かに、一度だけ頷いてみせた。
「―――っ!」
全身の血が、凍りついた。
背筋を、氷の刃でなぞられたかのような、絶対的な戦慄が走る。
気づかれていた。
最初から。
俺たちの存在も。
潜む場所も。
そして、今放たれた、この殺気さえも。
その全てを察知した上で、彼は自らの武徳を示したのだ。
姫君に危害を加える意志はない、と。
この男は、一体、何者なのだ。
その武もさることながら、この戦場の全てを掌握する、神の如き視野。
「…弓を、下ろせ」
俺は、震える声で命じた。
もはや、俺たちが介入すべき戦いではない。
いや、介入することすら、許されぬ領域なのだ。
決闘の勝敗は、決した。
だが、俺たちの心に残ったのは姫君の安否よりも、あの趙雲という男への、計り知れないほどの畏怖と戦慄であった。
この男が、もし敵であったなら。そう考えただけで、全身の毛が逆立った。
そして、もし、味方となるのならば。
その時、我らが并州軍は、一体どれほどの力を持つことになるのか。
俺は、ただ、眼下で静かに向き合う二つの魂を、ゴクリと唾を飲む音と共に、見つめ続けることしかできなかった。