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第五十話:天命の交錯

第五十話:天命の交錯

夕暮れの渓流は、まるでこの世のものとは思えないほど、幽玄な美しさに満ちていた。

川面は、沈みゆく太陽の最後の、そして最も情熱的な輝きを映し、まるで溶かした黄金を流したかのように燃えるような色合いで、囁くように流れていく。

周囲の木々は夕闇を運ぶ風にその葉を優しく揺らし、さわさわと、まるで二人のためだけに奏ぜられる天上の雅楽のような荘厳な音色を奏でていた。

戦いの熱気と血の匂いはすでに澄んだ秋風に洗い流されている。ここにあるのは、ただ、これから始まる神聖な儀式を前にした、清冽な緊張感だけだった。


やがて、二人は川の中州に歩み出る。水の冷たさが足首を撫で、流れが細やかな波紋を描いた。岸辺の岩に砕ける水飛沫が、二人の昂ぶりで火照った肌を優しく撫でる。


二人は向かい合うと、無言のまま、互いの愛槍をゆっくりと逆さに持ち替えた。

飛燕の黒い槍の鋭い穂先が、静かに天を向く。

趙雲の白銀の槍もまた、天へと掲げられる。

代わりに互いの命に向けられたのは、鈍い輝きを放つ「石突」。

それは、刃を交えずに技量の全てをぶつけ合うという、最高の敬意と挑戦の表明であった。これは殺し合いではない。魂を確かめ合うための儀式なのだと、その無言の所作が何よりも雄弁に物語っていた。


飛燕の胸は、焼けるような興奮に高鳴っていた。

生まれて初めて出会った、自分と対等な、あるいはそれ以上の魂。この男と槍を交えられるのなら、この身がどうなろうと構わない。そんな、純粋なまでの歓喜が彼女の全身を駆け巡っていた。


趙雲の心もまた、静かな喜悦に満ちていた。

探し求めていた理想の義。その片鱗を、この荒々しくも気高い少女の魂に見た。この決闘は、その魂の真贋を確かめるための、運命の試練なのだと彼は感じていた。


夕闇が迫り、世界が金から紫へと色を変えていく。

その舞台は、いまや人の世を超え、天すらも見守る「神聖なる決闘の場」へと変貌していた。


飛燕が深く、しなやかに腰を落とした瞬間、彼女を中心に周囲の空気の温度が灼けるように上がったかと錯覚するほどの、圧倒的な覇気が放たれた。それは父・呂布譲りの、弱者の心を根こそぎ恐怖で支配する、絶対的な強者の「気」。大地から陽炎が立ち上るかのように、彼女の輪郭が揺らめいて見える。

対する趙雲は、千年を生きた古木のように背筋をまっすぐに伸ばし、槍を静かに水平に構える。その姿は、一点の揺らぎもない湖面のごとく、絶対的な静寂と均衡を保っていた。飛燕の灼熱の覇気も、彼の前ではまるで蜃気楼のようにその意味を失い、清冽な気流に飲み込まれていく。


あまりにも対照的な、二つの影。

陰と陽。水と炎。地と、天。

もはや言葉はなかった。ただ、互いの瞳だけが全てを語っていた。


飛燕の胸は叫んでいた。

(ようやく――ようやく、出会えた!)

趙雲の心は囁いた。

(お前だったのか……天が導いたのは)


二人の身体はぴくりとも動かない。だが、その魂はすでに千合、万合と激しく打ち合っていた。

互いの闘気が見えない龍となって絡み合い、天へと昇るかのように渦を巻き、中州の空気を陽炎のようにゆらりと歪ませる。足元の小石がかすかに鳴り、静かだった川の水面にさざ波が幾重にも美しい円を描いて広がっていく。


そして。

空に残っていた最後の夕陽が西の山の稜線に完全に隠れ、世界が夜の始まりを告げる深く美しい青と紫のグラデーションに染まる、まさにその瞬間。

静寂が、張り詰めた弦のように極限まで高まった、その一点で。

どちらからともなく、二つの影が音もなく、滑るように動いた。


ゴォンッ!

鉄と鉄が、互いの全霊を込めて激突する、骨の髄まで響き渡るような重い轟音。


初手は飛燕。黒い稲妻が迸るかのような、鋭く直線的な突き。その石突は、岩をも砕く威力を秘めている。

だが、趙雲はその一撃をまともに打たせなかった。彼の槍は、飛燕の力が乗り切るよりも一瞬早く、生きている銀の蛇のように黒槍へ絡みつく。正面から受け止めるのでも、紙一重でいなすのでもない。相手の動きを利用してその威力を殺し、態勢ごと崩しにかかる――まさしく格上の技。そのあまりに流麗な動きに、飛燕の瞳が初めて驚愕に見開かれた。


続けざま、趙雲が間合いを詰める。寸分の狂いもなく飛燕の喉元を狙う、教科書のように完璧な石突の打突。

「甘い!」

飛燕は獣のような反射で身をひねると、遠心力を利用した嵐のような薙ぎ払いで応じた。

水と風が激突し、川の水面が爆ぜて飛沫が宙に舞う。

三撃、四撃――。もはや一撃ごとの応酬ではない。二人の槍は夕闇の中で無数の残像を描き、その石突が交錯するたびに鍛冶場のような火花を散らし、連続した轟音を渓流に響き渡らせる。


「はあっ!」

飛燕が全霊を解き放つ。

それはもはや型のある武術ではない。中州の岩を蹴り、宙に舞い、予測不能の角度から、まるで竜巻のように回転しながら槍を叩きつける。理屈を超えた「感性」の猛撃。

趙雲はそれを受け止めながら、心の奥で戦慄していた。

(なんだこの槍は…! 天地自然の荒々しさを、そのまま人の身で振るっているというのか!)

だが、彼は退かない。

飛燕の嵐の中心で、趙雲の槍は、その激流を制する巨大な岩となる。彼女の力を正面から殺すのではなく、その流れの中心を的確に見極め、最小限の動きで受け止め、包み込み、そしていなす。

飛燕もまた、己の全力をいともたやすく捌く男の存在に、歓喜で魂が震えるのを感じていた。

(こんな人間が……いたなんて!)


嵐と水流。

荒れ狂う風は大地を抉り、清らかな流れはその全てを受け止め、より大きな奔流へと変えていく。二人の槍の応酬は、もはや勝敗を決するためのものではなく、互いの限界を、その魂の形を、確かめ合うための舞踊であった。

やがて、戦いは最高潮に達した。

飛燕が大地を強く踏みしめ、全身のバネを使って渾身の一撃を放つ。黒い槍がしなり、その石突が空気そのものを切り裂いて趙雲に迫る。

趙雲もまた、その生涯で培った全ての技を込め、完璧な一点を突く迎撃を繰り出した。


―――ゴゴゴゴゴッ!


凄まじい衝撃音と共に、二人の石突が中州の硬い岩盤に同時に叩きつけられた!

二人の人間離れした膂気に耐えきれず、岩盤が蜘蛛の巣のような亀裂を走らせ、次の瞬間、轟音と共に砕け散った!

巨大な水飛沫が二人を包み込み、月光を浴びて無数の水晶のようにきらめいた。


砕けた岩盤でわずかに体勢を崩した飛燕。

その一瞬の隙を、趙雲は見逃さない。

彼は砕けた岩の破片を踏み台にして、まるで舞うように跳躍した。

その手にした槍の柄が、石突側を先頭に、薙ぎ払うようにして、無防備となった飛燕の首筋を捉えようとする。


勝敗が決する、まさにその刹那――。

時が、止まったかのように、渓流は静まり返った。

鳥の声も、風のざわめきも消える。

勝敗は、果たして――。

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