幕間:并州の静観
幕間:并州の静観
秋風が吹き渡る頃、并州・晋陽の軍議の間は、遥か南、官渡の地から吹いてくる熱風のように、肌をちりちりと焼く緊張感に包まれていた。
卓上に広げられた巨大な地図。その中央に置かれた「官渡」の二文字を、居並ぶ将たちはまるで生身の敵を睨むかのように見つめている。
「―――以上が、許都の間者より届いた最新の報告にございます」
陳宮の声が、静かに広間に響き渡った。
「戦は膠着状態。ですが、その影響はじわじわと我らの足元にも及んでおります。冀州との国境付近では袁紹軍に徴兵されるのを嫌った流民が并州へとなだれ込み始め、兗州の治安悪化に伴い曹操軍の兵を騙る賊が我らの領地の南端を荒らしているとの報告も入っております」
陳宮の報告が終わるや否や、高順が重い口を開いた。
「見過ごせませぬ。国境の警備を強化し、不埒な輩は即刻斬り捨てるべきです」
武人らしい厳格で真っ直ぐな意見。多くの将がそれに頷く。
だが、徐庶が静かにそれに反論した。
「高順将軍のお考え、ごもっともです。ですが、彼らは皆、戦に追われた哀れな民。力で追い払えば、我らが築き上げた『楽土』の評判は地に落ち、内外に新たな敵を作ることになりましょう。今は耐え、彼らを受け入れ、屯田兵として組み込むべきかと存じます」
知と仁に基づいた、しかし国の財政を圧迫しかねない意見。文官たちは、徐庶の案に賛同の意を示した。
厳格なる「法」か、温情ある「仁」か。
国境で起きている小さな火種を巡り、軍議は二つに割れた。将たちの視線は、玉座の主へと注がれる。この国の形を、最終的に決めるのは彼の一存なのだから。
呂布は、ゆっくりと立ち上がった。その巨躯が動いただけで、広間の空気が彼の覇気によって支配される。
「どちらも、正しい」
その、誰もが予想しなかった第一声に、将たちが息を呑む。
「高順の言う通り、法なくして国は成り立たん。だが、元直の言う通り、仁なくして民はついてこぬ。ならば、答えは一つだ」
彼は居並ぶ将兵の顔を一人一人見渡し、そして、雷鳴のように、しかし静かにその決断を告げた。
「法と仁、その両方を、俺がこの身で示す」
彼は高順に向き直った。
「高順、お前は国境へ行き、法を破る賊を徹底的に取り締まれ。だが、殺すな。捕らえた者は、全て晋陽へ送れ」
次に、徐庶へと向き直る。
「元直、お前は晋陽で食糧の備蓄と開墾地の準備を急げ。そして、流民たちを受け入れる体制を整えよ」
そして、彼は全ての将を見渡し、君主としての絶対的な方針を示す。
「捕らえた賊には、俺が直接問いただす。なぜ、盗まねばならなかったのか、と。そして選択肢を与える。俺の下で鍬を握り并州の民として生きるか、あるいは法に従いここで死ぬか、と。俺は、そのどちらの覚悟も受け止める。それこそが、この并州の『法』であり『仁』だ」
その、あまりにも大きく、そしてあまりにも厳しい君主の覚悟。
将たちは、もはや反論などできなかった。ただ、自らが仕える主君の、その計り知れないほどの器の大きさに、深く、深く頭を垂れ、改めて絶対の忠誠を誓うのであった。
軍議が終わり、将たちが去った後。
がらんとした広間には、呂布と二人の軍師、そして父の傍らで静かに議論に耳を傾けていた暁だけが残された。
張り詰めていた空気が緩み、呂布の顔から君主の仮面が剥がれ落ちる。
彼はふと、窓の外に広がる秋の空を見上げ、誰に言うでもなく呟いた。
「…あの馬鹿娘め、今頃、どこで何をしておるやら」
その声には君主としての厳しさではなく、ただ娘の身を案じる、一人の父親の不器用な憂いが滲んでいた。
「あいつの槍は、俺に似てあまりに激しすぎる。受け止める者がいなければ、いつか自らを焼き尽くしかねん…」
その父の横顔を、暁は静かに見つめていた。
その時、陳宮がまるで未来が見えているかのように、穏やかな声で言った。
「殿、ご心配には及びますまい。飛燕様は殿の血を引くお方。籠の中では収まりきらぬ、天翔ける魂をお持ちです。必ずや、ご自身の道を見つけられましょう」
徐庶もまた、静かに頷いた。
「ええ。あるいは、姫君のその嵐のような魂を受け止める、もう一つの巨大な魂と、既に出会っておられるやもしれませぬな。嵐は、嵐を呼ぶものにございますから」
「ふん…」
呂布は鼻で笑った。
「あのじゃじゃ馬の槍を受け止められる男など、この天下にいるものか」
だが、その口元にはどこか、娘の未来の伴侶を想像する父親のような、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
(もし、本当にそんな男がいるのならば…それもまた、一興か)
呂布の、その予言にも似た言葉。
そして、軍師たちの、天命を見通すかのような言葉。
その全てが、今まさに并州北部の辺境で現実のものとなろうとしていたことを、まだ誰も知らなかった。